莇にとってそこは、知らない街だった。
改札を出て駅ビルに繋がる風景そのものは、時々好きな服のブランドを見に来る駅に似ていた。だけど、行き交う人の質も、量も、コンコースを出たところから見下ろす街路樹が色づき始めた駅前通りも、すべてが初めて見るものだった。
一応、送られてきたメッセージを確認して、目印を探す。『西口を出たところにある、誉さんみたいな銅像』。送られてきたときにはなんだよそれ、と思ったけれど。
「…………確かにちょっと似てんな……」
片手を胸に、片手を大きく広げ、ステップを踏みながら高らかに歌い上げる男の像の下では、ウサギやリスなどの森の動物たちが集まってきている。一瞬、何ともいえない被り物を思い出しそうになって、首を振って頭の中から追い出した。
像に近付くと、すでに反対側に待ち合わせた薄紫の頭が見える。開いたままだったLIMEで到着した旨のスタンプを送ると、おそらくはスマホを見ていた頭がぱっと上がり、莇のいる方向を向いた。莇の瞳を捕まえた金色はすぐに楽しそうに細められて、顔の前で大きく手を振り始める。ああもう、大学生になって半年になるってのに恥ずかしいヤツ。
「莇! よかった、迷わなかった?」
「悪ぃ、待たせた。すぐだし全然余裕だった。誉さんって思ったより似ててビビった」
だろー? と満足げに笑う九門に、こういうところは変わらないよな、と小さく息をつく。それが何に対してのものかは、考えないふりをした。
「じゃ、行こっか。こっち下りてちょっと行ったとこなんだ」
エスカレーターの下を指さす九門に頷いて、並んで歩き出す。ちらりと見た横顔にきらりと光ったのそれは、莇が見たことのない色をしていた。
「それ」
「ん?」
「ピアス。最近買ったやつ? 今までのより派手だけど、結構似合ってんじゃん」
ああ、と相槌を打つ声がエスカレーターに揺れる。
「ありがと! 一昨日学科の友達と寄り道したときに一目惚れした!昨日は一限からで朝ばたばたしちゃったから、今日初めて付けてきたんだ」
莇センスいいから誉められると嬉しいなー! と弾む声を聞きながら、道理で昨日誘われた時には気付かなかったはずだと考える。それでも、朝会っていたらその時にわかったはずだ。寮を出る時間が違うから、今になってしまっただけで。
「あ、こっちこっち」
エスカレーターを下りたところから駅前大通りの次の十字路を左、その三軒目に件の店はあった。太い筆文字で店名が書かれた看板の下の引き戸を引けば、らっしゃーせー、と店員のよく通る声が響く。
「二人、あと後で一人来るんですけど、大丈夫っすか」
慣れた様子の九門に続いて店に入る。案内された半個室のテーブル席に荷物を投げ込んだ九門は、戻ろうとする店員を呼び止めた。
「とりあえずウーロン茶ふたつと串盛り合わせ、おなしゃす」
一礼して去っていく店員を見送った九門が、立ったままそれを見ていた莇を見る。九門が自分の向かいを指し示すから、莇は黙って九門の正面に腰を下ろした。
「絶対食べたいのだけ、先注文した。あと何にする? ……あ、飲み物ウーロン茶でよかった?」
テーブルに広がったメニューをめくる九門に別になんでも、と返す。どうせふたりともまだ選択肢は少ないのだ、ソフトドリンクなら構わない。
「今更だけど、いいのかよ俺らだけでこんな店。ふたりとも酒飲めねーだろ」
「オレも連れてきてもらった時聞いたんだけど、ノンアルコールだけなら大丈夫なんだって。あと十時までしかいちゃいけないみたいなんだけど」
そんな遅くまでいないよね? メニューに顔を向けたまま目だけで見上げてくる九門に頷く。一応スマホを見れば、現在時刻は六時半。夕飯だけ済ませるなら一、二時間もあればじゅうぶんだ。
「で、莇何食べたい?」
「あー……とりあえず、野菜。サラダとか。あとは任せる、詳しくねーし。でも肉ばっかとかやめろよ」
「大丈夫大丈夫! 莇の好きそうなもの頼んどくね。だいたいわかるし」
調子のいい返事をした九門は、ウーロン茶を持ってきた店員にあれこれ注文をしている。二十前後の男三人で食べるんだから余ることはありえないし、追加注文もするのだろうけれど。
注文を取った店員と入れ替わりに最初に頼んだ品が運ばれてくる。テーブルに置かれたのはほかほかと湯気を立てる、串揚げの盛り合わせ。肉やエビ、茄子や蓮などに混じって、莇の好きなししとうも並んでいる
。
「このラインナップにししとう入ってるの珍しいじゃん?でもこのししとうがすっげーうまくてさ!絶対莇に教えよーって思ってたんだ。新歓の時に来た店だけど、やっと一緒に来られてよかったー!」
ね、食べてみて! 目の前の男が期待を込めた瞳で見つめてくるから、折れざるを得なかった莇は飲んでいたウーロン茶を置いて、ししとうの串に手を伸ばした。さく、と音を立てて噛み切ったししとうの味が、口の中に広がる。
「……」
「どう? どう?」
「…………食ってる間くらい待てよ……ん、確かにうまい」
「やったー! オレも食べよ!」
両手を上げて大袈裟に喜ぶ姿も、おそらくトンカツだろう串にかぶり付く姿も、莇の見慣れた九門だった。胸の中に静かに積もりつつあった何かが少し溶けていく気がする。このししとう串にしたって、その新歓とやらの中で九門が莇の好物だと考えていたということだ。
なんだか、それって。
「――あ!そろそろ着くって!」
テーブルの上で震えたスマホの通知を見た九門が楽しそうに言う。莇がゆっくり顔を上げたのと同時、入り口の扉の鈴が聞こえたような気がした。
「この前劇団のみんなで入った席、と……あ、」
「遅くなってごめーーーん!」
九門がメッセージを返し終えるより先、半個室によく知った赤色が姿を現した。申し訳無さそうに眉を下げて両手を合わせた太一は、そのままの姿勢で莇の隣に座る。
「太一さんおつかれ!」
「おつかれ。なんかちょっと息切らしてっけど平気か」
隣で肩を上下させる太一に莇が問えば、この中での最年長はそーそー聞いて! とテーブルを叩く。
「待ち合わせある日に限って電車止まっちゃっててさ、葉大から歩いて来たッス……」
「でも一駅じゃん?オレ一人で帰る時たまに歩いてるよ」
「ええー……元運動部強……」
葉星大学の最寄り駅もそれなりに街だけれど、乗り換え駅でもある隣駅の周り、今莇たちがいる街の方が発展している。だから葉大生は隣駅の周りで飲んだりすることも多いらしく、この店も葉大生御用達の一軒ということらしかった。
「で、あーちゃん何頼んだ?」
「え? よくわかんねーから九門に任せた」
「だめだよー! 今日はあーちゃんの……あっ」
太一は口をつぐんだけれど、向かいの九門のあーあ、というような表情からしても、なんとなくおおよその事情は察してしまった。
そもそもおかしいと思ったのだ。さっきメニューに見えた串かつ盛り合わせはそこそこの値段だったし、そんなものを何も言わずに割り勘させるようなヤツでは、たぶんない。未成年だけで入って問題ないと言っても一応酒が飲める人間が欲しくて引率を呼んだにしても、つい一週間ほど前に成人を迎えた太一以外にも、葉大だけでも何人も候補はいたはずだ。
時折妙に莇に兄貴風を吹かせたがる太一と九門の、この時期の共謀と言ったら、たぶん、
「ここの飯代が誕プレってこと?」
太一がうなだれる。テーブルを這うようにやっぱバレてた、と声が聞こえて、なんだかおかしくなって莇は頬杖をついたまま笑った。
「うー、バレちゃしょうがない、っていうかちゃんと言っといたほうがよかったね。うん、今度のあーちゃんの誕生日のお祝い。今日ここは俺っちが出すから、何でも好きなもの頼んでいいよ。……九チャン、あーちゃんの好きなの聞いといてって言ったじゃん。ていうか、あーちゃんのリクエストじゃないなら何頼んでるの」
「ちゃんと莇が好きそうなのも選んだよ? えっと、これと、これと……」
「それ九チャンと天チャンが好きなやつじゃん!」
コントみたいな風景に、どこにいても変わんねーな、と口の中だけで笑う。さっき薄くなったはずの何かが降ってきたような感覚は、運ばれてきた『九門と天馬の好きなやつ』に意識を向けて押し流した。
そうして多少太一の懐を気にしながら莇も追加注文をして、いくつかの皿を空にしたころ。
「そういや九チャン、この前のスナップマガジンできたって。今日もらってきたんだ」
太一がバッグから取り出したのは、B5サイズの薄い冊子だった。どこかの高架下と思われるグラフィティアートの前でポーズを決める、表紙の写真に写った二人は、
「お前らじゃん……」
つい言葉を漏らした莇に、同席の二人はにやついた顔を隠そうとしない。うぜえ、と九門の額に軽いでこぴんをしてやる。悲鳴が聞こえるけれど知ったことか。
「んとねー、臣クンの写真部の後輩で、俺っちたちには先輩なんだけど。自主制作の雑誌風作品のモデル頼まれたんだー」
十数ページのその冊子は、どのページをめくっても太一と九門しか写っていなかった。グラフィティを表紙にしたように、ストリートスタイルということで臣を通した知り合いの中でも太一に声がかかったらしく、それに九門も乗っかったということだった。
「もう一人欲しいっていうから、オレなら客演増やしてる兄ちゃんとか脚本がある綴さんより時間あるしさ。天馬さんがやったら色々大変だし。それに自分の写真での写真集って、すっげー面白そうだったから!オレも一緒にやらせてもらうことにしたんだー」
二人も劇団員だから、監督には話したらしい。学生個人の自主制作なら諸々の報告があれば個人で請けていいとのことで、楽しく協力したと二人は笑う。
「劇団ではあんまやんないことも多くて、すっげー楽しかった!」
「へー……」
ページをめくる。どこに写っているのも、莇の知らない太一で、九門だった。劇団での撮影物にはだいたいビジュアル案の段階から関わっているから、自分の知らないスタイリング、自分の知らないヘアメイクをしている身内を見るのは少し新鮮だった。
「……」
同時に、自然と頭に浮かぶものがある。――俺なら、このシチュエーション、このコーディネートなら、メイクはもっと――
「莇?」
声をかけられてはっとする。見れば莇の注文した『美容メシ』を謳ったメニューが届いたところだった。
「こんなのあったんだ。何回かこの店何回か来てるけど全然知らなかった」
「俺の誕プレにしようとしてたなら調べとけよ……」
冊子を太一に返して皿に向かう。最近肌が荒れ気味な九門の取皿にも無理矢理乗せながら、向かいにある顔を見つめる。
「?」
毎日顔を合わせている、結構化粧のしがいのある顔。今は何も色は乗っていないけど、今の莇なら。
「――なぁ九門、お前も太一さんとここの飯代出すの」
「へ?」
九門の結構容赦ない注文の仕方からするに、太一の奢りなのだろうとは思ったけれど、一応聞いてみる。案の定九門は全く考えてなかった風の顔をしているし、太一は一瞬すがるような目をしたあと、拳を握りしめた。
「……いや、ここは唯一お酒飲める歳で最年長の俺っちが全部払うッスよ。お兄ちゃんだからね!」
「やったーありがとー太一さん!」
「じゃあ」
調子の良い九門を黙らせる。取り分けに使ったフォークを九門に向けて、思いついたことを吐き出す。
「俺にくれるもん決まってねーなら、今度の週末一日俺に付き合え。前、お前の誕生日に付き合ってやったことあったろ」
莇がそう言えば、九門はぱあっと明るい表情で頷く。
「うん!莇がそれでいいなら!」
「よし」
尻尾を振る犬みたいな九門に満足して、取り分けた料理を口に運ぶ。頭の中では、週末九門をどうしてやろうか考えを巡らせていた。
付き合わせる場所はどこでもいい。もちろん野球じゃなくてサッカーに行くし、服やCDを見る店も昼を食べる店も選ばせてもらう。だけどそれよりも、出掛ける前、ファッションからメイクから全部好きにさせてもらう。そうして莇好みに作り上げた九門と、莇の好きなことをするのだ。
(……大学生になって、いろんなこと楽しそうにしてるこいつも悪くねーけど)
一番かっこいい九門は、目の届くところにあるといい。薄く降り積もった中から顔を出した身勝手な願望は、二杯目のウーロン茶で流し込んだ。