エチュード練習、少女漫画より【ひだまりのぼくら】

 ずっと、一番近くで見てきた。俺以上の理解者はいないと思ってた。今でも思ってる。たった数か月近くで過ごしただけの馬の骨に搔っ攫われるなんて冗談だろ?
 なぁ、お願いだ。俺を、

『俺を選んでくれよ……』

 表情は思い切り切なく、縋るように。喉から絞り出したみたいな必死な細い声、目の前の人間がいなければ死んでしまうというくらい。自分の足元に落としていた視線を上げてその人を見つめる。ああ、そこにいるのは焦がれてやまない――

「『そんな、急に、言われても』――」

 ――どころか百年の恋も冷める大根なんだよなぁ。

「おいテメェ兵頭ふざけてんのか」
「あ?真面目にやってんだろうが」
「だったらなんで!ずっと弟だと思ってた相手に迫られて戸惑いながらもドキドキしちまうヒロインの芝居がそんな喧嘩売るみてぇなガンつけたモンになんだよ!?」

 やっぱり女役やりたいなんて言うのを了承したのが間違いだった。逆の方がまだマシだったはずだ。――兵頭に迫られて、戸惑うヒロインを俺が演じるのを想像して頭を抱えた。
 視界の端に立っていた影が縮こまるのが見える。やっべ。そう思った時には少し遅かった。

「ごめんね、エチュード練なら大和くんと杏ちゃんを演じてみて欲しいなんてボクが言ったから……ボクがしおしおの」
「椋、今のはあれだ、確かに解釈が足りなかった、だからお前がちょっと手本見せてくれねぇか」

 秋組の稽古前に自分で見直したいところがあったから早く来たところに兵頭もいたからなりゆきでエチュード練することになって、兵頭についてきてた椋のリクエストで少女漫画の一場面から発展させる、はずが冒頭からこうなった。俺はそこそここなせる自信はあるし、大根も大根なりに役者ができているのはわかっている。だけど、こと「少女漫画」「恋愛ドラマ」のヒーローは読書経験からしても椋の引き出しが多いのは確かだ。その椋の芝居からなら何か見えるかもしれない、そう思ったのは本心だった。秋組公演で「ヒーロー」を演じる機会があるかは別として。
 椋は一瞬面食らったみたいな顔をしてから、ぱぁっとその表情を輝かせた。従兄弟ってのはこうも似るもんなんだろうか、俺が稀に菓子を渡してやったときの反応にそっくりだ。

「ボクがやっていいの!?あっ、でももうすぐ秋組の稽古なんじゃ」
「まだ時間あるし、俺とこいつしか来てねぇんだし問題ねぇよ。それで?さっきの役でいいのか?他のでもいーけど」

 そう言うと椋は壁際に置いていたトートバッグに駆け寄って何かを取り出してきた。言うまでもなく、少女漫画か何かだろう。

「じゃあ、この『藤色の奇跡』の彰くんをやってみてもいいかな。短いシーンだから十ちゃんと万里さんにも見てもらって、ボクのお芝居の感想を聞かせてほしいな!」

 椋に手渡された単行本を開く兵頭の後ろから覗き込む。ページ数にして見開き三ページほど、それは椋の言う「彰くん」一人のシーンではなかった。

「椋、ここは『彰くん』の他に『亜里ちゃん』も必要なんじゃねぇのか」

 当然兵頭も気付いたらしい。そう、このシーンを演じるにはヒロイン役が足りない。

「だったら俺がこの『亜里ちゃん』役を」
「見て感想聞かせてほしいって言われただろが」

 こいつの女形への妙なこだわりはなんなんだ。

「絶対にいなくちゃいけないってわけじゃないし、今は見ててくれる?亜里ちゃんは彰くんより背が高いけど、ボクと十ちゃんの身長差だとちょっと大きいし……」
「なにやってんの」

 四人目の声がした。稽古場の扉に俺たち三人の視線が集まる。現れた四人目、莇は一気に見られて少し居心地悪そうに身じろいだ。

「黒髪、クールな美人……莇くん!!」

 競歩みらいな勢いで扉に向かった椋は、莇の目の前に立つと、両手で莇の手を握った。

「うわ、」
「莇くん!今からボクのお芝居に付き合ってくれないかな!?エチュードみたいなものなんだけど」
「え、エチュード?そんくらいならいいけど」

 あーあ。俺は胸の内だけでそう零した。
 確かに、莇は亜里ちゃんにぴったりだ。椋が零してたように、肩より少し長い黒髪の、涼しい雰囲気の美形。ちょっと恋愛耐性がないところも似ているかもしれない。もちろん、莇ほどではないが。
 助けてやるべきだろうか、しかし。

「それじゃあ、壁際に立ってくれるかな。手は……そう、そのままでいいから」

 椋は獲物を逃がさない勢いだし、兵頭はそんな椋を見ながらどんな芝居が見られるかわくわくしてやがる。まぁ、お前もいい加減ちょっとは慣れた方がいいだろうし。静観することにして、俺は腕を組んで椋と莇を眺めた。

「じゃあ、行くね」

 目を閉じて深呼吸。目を開いたとき、そこにいたのはもう椋ではなかった。

『……好き』

 言いながら、目の前の「彼女」に近付く。身体が触れそうな距離、下から「亜里」の顔を見上げた「彰」が顔を近付けてる。びくりと反応した「亜里」の反応に構わず、「彰」は囁く。

『ずっと、好きだった。……ねぇ、ぎゅってして、いい……?』

 「亜里」の手を取る。指を絡めて、壁に縫い留める――

「は、破廉恥だろうが!!!!!!!!」

 ――ことは、叶わなかった。
 掴まれかけた手を振り払った真っ赤な顔の莇は、そのまま大股で稽古場を出て行ってしまう。ちょうどやってきた左京さんと扉の外でぶつかりそうになる。

「おい坊どこ行くんだ、これから稽古だろが」
「るっせえ!!!!」

 莇の声が遠くなる。顔でも洗ってくるつもりだろうか。

「これで耐性付いてくれればとも思ったんだけど……」

 ダメだったか……椋が小さく呟く。ヒーローを演じながらなかなかなことを考えていたらしい。

「ま、こうなるだろうとは思ってたけど」

 それにしては、なんかいつもと違ったような。
 そんな小さな違和感の正体に、このときの俺は気付けないままでいた。