「暦、おなかすいた」
高く抜ける秋空の下の屋上、菓子パンみっつと一リットル紙パックの牛乳と俺の弁当の卵焼きを胃に収めた相棒が言うそれは、もちろん空腹のことではなくて。俺はため息をつくふりをしながら学ランの袖をまくる。
これで何度目になるだろう、この綺麗な顔した吸血種に血を与えてやるのは。
***
吸血鬼、っていう化物はおとぎ話の中だけだけど、生きていくために血が必要な人間ならこの世に存在する。大昔、ヨーロッパかどっかの貴族だったらしいその一族は、その特性から歴史上そりゃもう色々あったみたいで、今は世界中に散り散りになって、互いの交流を持たずにひっそりと暮らしているらしい。というのが、世界史の資料集に載ってたことだ。
だから、たまたま外国からの転校生がその種族の血を引いているのも、全然不思議なんかじゃなかったんだ。どんだけ低い確率だよって思ったけど。
最初は、確かまだ夏にならない頃だった。いつものパークで滑ってた夕方、俺の手がうっかりかすったアールの縁が尖ってて、擦り傷と切り傷が混ざったような怪我をした。ほんの少し垂れた俺の血を見たランガがぶっ倒れた。
初めて指から血を出した時のことを覚えてたから、俺は自分の傷を覆ってから倒れたランガを覗き込んだ。大丈夫か?そう訊いた俺に、ランガは宣ったのだ、『おなかすいた』と。
俺は一気に脱力した。腹減って倒れたのかよ。そう言おうとして言えなかったのは、ランガの綺麗な青い目が氷みたいな鋭い色をしてたからだ。ぞくっとした。今にも喰われそう、そんな目で、ランガは俺の手――覆った傷がある場所を見てたんだ。
『暦』
肉食獣みたいな空気を纏ったまま、ランガは繰り返す。
『おなかすいた』
それが、俺が初めてランガの血筋を聞いたときの――初めて血を、傷を舐めさせてやったときの話だ。
それから俺は吸血種のことを調べた。だってランガのことなんだ、一緒にいることが多い俺がなんか知ってればなんとかしてやれることもあるかも知れないし。
って言っても元々一家系だった上に歴史で色々起こりすぎてまともな情報はなかなか見付からない。吸血鬼と混ざった伝説がいいところだ。市の図書館回ってまで調べたんだから間違いない。図書館で会ったミヤには槍でも降るのかって言われたっけ。ランガ本人にそこまでしなくていいって言われてから、詳しく調べるのはやめたけど。
何個もの伝承で共通していたことがいくつかある。血の持ち主への感情で血の味が変わるだとか、早くから開発された血液製剤で生き延びてるとか、最終的には食糧を一人に決めて喰い続けるとか。
いろんな事を思った。最後のとか、今の社会じゃほとんど結婚と同じじゃん、とか。
***
高く抜ける秋空の下の屋上、入口の影、人目に付かないところ。俺の腕に噛みついて血を啜っていたランガが離れていく。牙が抜ける感覚、最後に傷を舐められる感触。……なんか、ヤバイ。背筋が震えるだけじゃなくて、身体が熱くなりそうで。身体がっていうかもっと一部が。
そんな俺の横でランガは口元を拭う。俺の視線に気づいて眉を下げる。
「ありがと。助かった」
「……おー」
こいつはいつもしんどい一歩手前で俺に『おなかすいた』って言ってくる。だから多分、俺以外の血は飲んでないんだろう。
「……おまえ俺がいないと生きていけなくなりそうだな」
「うん、なってる」
水筒を落とすところだった。食糧としての話だっつの、落ち着け俺。いや待て食糧以外ってなんだよ。
「そんな美味いの、俺」
……なぜか、俺を見るランガの視線が冷たくなる。ランガは『そういうことじゃないんだけど』とかなんとかぶつぶつ言ってる。俺は何か変な事を言っただろうか。
「でも、うん。美味しいよ。今まで飲んだどんな血より」
身体の奥、どこかがじゃりっと音を立てた。こいつ、俺以外の人間の血飲んだことあんのかよ。
「血液製剤ばっかりで、家族じゃない生身の人から直接、が初めてなのもあるけど」
俺だけだった。俺が初めてだった。告げられた事実にじゃりっとした何かが消えていく。だから俺は何にどう思ってるだよ?
「すごく甘くて、ちょっと酸っぱくて、フルーツみたいで、すごく美味しい。ずっと飲んでたいくらい」
「へー……」
その味の言い方は、どこかで聞いたことがある気がした。そう、確か、相手への感情で血の味は変わるっていう……
「……へ?」
思い出したそれに、思わず頭を抱えてうずくまる。甘くて酸っぱくてフルーツみたい。俺の記憶と俺が見た本が間違ってなければ、それは。
「……へ!?!??!」
お前、俺が色々調べてたの知ってるよな。知ってて言ってんの。顔を上げる。ランガを見る。
「……暦」
おなかすいた。