好きな事を仕事にすると嫌いになるって話があるらしい。けど、俺は多分そんな事はない。一日中だって滑ってられるし、デッキの組み方考えて夜を明かせるし、カッケー動画見てるだけでもあっという間に時間が過ぎる。誰かと一緒ならなおさらだ。日に日にもっと好きになっていってる気さえする。
だから高校入ってすぐにドープにバイトをせがみに行ったし、高校を出た今もショップ店員兼メカニックとして日銭を稼いでいる。誰かのスケート生活充実の手伝いができるのもボードの整備をするのも、新作受発注とかも併設ランプの管理もキッズスクールの手伝いもすっげー楽しい。帳簿とかもいつか自分で店を、って考え始めてから一気に身になってきたと思う。もともと数字は嫌いじゃないし、案外向いてるのかもしれない。もちろん楽しいだけじゃないけど、そんなのトリックの練習に何十回何百回も失敗が必要なのと同じ、あって当たり前の事だ。
そうやって俺はありがたくも毎日それなりに楽しい充実した仕事をさせてもらってる。だけど今日ばっかりは、俺は何回時計を気にしたかわからない。早くバックヤードに戻りたくて仕方ない。だって、その場にいられないのなんて今日が初めてなんだ。
早番定時の午後七時までやっとあと五分。さっき見てから二分しか経ってない。どれだけ繰り返したかわからない棚の整理をもう一周して、壁掛け時計を見る。あと四分。我ながら見る頻度が高すぎる。店長はもう呆れ返ったように先に上がれっていうけど、そうはいかない。定時は定時だから、それより前にタイムカード切ったら早退扱いになっちまうし。
何度目だろう、時計を見る。長針は今度こそ真上を指している。
(よし!)
頭で意識するより先に、身体が動き出している。
「んじゃ喜屋武上がりまーす!」
ひらひらと手を振る店長に叫んでバックヤードに引っ込む。狭くて埃っぽい物置兼更衣室の中、扉を背中で閉めながらズボンのポケットからスマホを取り出して画面を明るくする。通知は二件、どっちも同じ相手。微妙に可愛くないキャラクターが笑ってるスタンプと、二分半の動画。
「……っしゃ!」
同じシリーズの変なキャラクターの、俺も笑顔のスタンプだけ返して動画の三角をタップする。スマホを横向きに棚の中に置く。制服のシャツを脱ぎ捨てる。私服のパーカから顔だけ出して、ずり落ちたヘアバンドを掴みながら動画を見る。視線はスマホに向けたまま、手元を見ないで棚からバッグを引っ張り出す。これくらいなら半年もやってればもう慣れっこだ。袖に腕を通してる時、画面の中に現れる人影。
派手なオレンジのジャケットに、青のボトムスと赤いシューズ。首の後ろで軽く結んだ髪。元がいいからちょっとの事でもかなり印象が変わる。今日のあいつはよく着てるハイネックとシャツじゃなくて、俺が見立てたコーディネートでカメラに収まっている。やっぱ、キマッてんじゃん。自分の仕事の出来に頬が緩む。
フィールドはシンプルなひょうたん型のプールだ。角度の違うアールも中央のキャニオンも何もない、ただのすり鉢状。そんな競技スケートにはチャチな場所でだって、あいつは何よりも輝いている。今だってほら、急斜面のアールを上りきって、空へと舞い上がる高く。高く。俺は自分の目に映す、何百回目かの雪に見惚れた。
――はぁっ、自分の息を吐く音に気が付いて、俺は息を止めていたことを知った。いつの間にか画面は真っ暗になっている。腕は中途半端にパーカに通されたままだ。たった六インチ程度の画面の、三分にもならない動画に、俺はどれだけ魅せられていたんだろう。
今すぐもう一回見たい気持ちもあったけど、それより早く帰る方が今は全然大事なことだ。袖に腕を通してボトムスを整えて、バッグとスマホをひっつかんで店を出る。家までの道をスケートで駆ける。
風を切る。プッシュで追い越していく景色の中、街路樹は色づいた葉を落とし始めている。秋を過ぎて初冬と呼べるようになってきた季節の東京はそれなりに冷える。島育ちの俺が初めて過ごす本州の冬。でも、頬を通り過ぎる空気がいつもより冷たく感じるのは俺の体温が高いからかもしれない。しょうがねえだろ、あんなもん見ちまったんだから。
お世辞にも綺麗とは言い難いアパートの前でスケートを止めがてらテールを蹴り上げて、キャッチした勢いのまま階段を駆け上がる。重い鉄扉を放って声をあげる。
「ただいま!」
ボードだけ玄関扉の横に立てかける。身体を起こした途端、ぶつかってくる衝撃。
「おかえり暦!」
花が飛んでそうなふわふわした笑顔で、ランガが駆け寄ってくる。シンプルな部屋着のシャツに、エプロン。いかにも同居してる、って感じのその出迎えも、なんか照れるって思ってから何回お目にかかっただろう。まだ靴から足を抜いていないままの俺に抱き着いて、それだけじゃ飽き足らず両頬にキスをしてくる。抱き着いてくる身体がいつもよりあったかい気がする。テンションが高めだ。
こういうランガの行動にもだいぶ慣れてきたと思ってたけど、それでもじわじわ顔が熱くなる。俺の背中に腕を回すランガの顔は見えにくくて、長い前髪から少しだけ見えたのは、甘くとろけたマリンブルー。くそっ、めちゃくちゃ幸せですみたいな顔しやがって。かわいいな。
今日のランガはいつになく積極的だ。これまでにも抱き着いてくるまではよくあったけど、両頬にちゅーまで貰った事はない。あったら絶対忘れねえし。今日そうなる理由なんてもちろん、俺がショップのバックヤードで魅入りすぎていた動画だ。
額を合わせて、きらきら俺を映す青い瞳を間近で見つめる。長いまつげがまぶたに落とす影を眺める。さらさらと指通りのいい雪の色の髪をくしゃくしゃに撫でる。
「ランガ、パーク自己ベストおめでとう」
俺の手を心地よさそうに目を細めて受け入れたランガは、頬を染めて笑った。
俺たちの城は東京都下、二十三区から外れた古いアパートだ。スケートショップ勤め一年目と大学一年生+スケートショップアルバイトのルームシェアは、どうしたって裕福じゃない。まして二人ともスケートなんてそこそこ金のかかる趣味のために生きているようなもんだし、エンゲル係数もそれなりに高い。けど、そんな手探りしながらの生活もランガとだから楽しい。我ながらかなり浮かれてると思う。
休みを合わせられれば当然一緒に滑るし、買い出しとかに一緒に行く事もあるし、家の中にこもってまぁ仲良くしてる事もある。たまにショップの所属として大会に出させて貰ったりもする。今日のランガもそんな経緯だった。
「悪いな、疲れてるのに夕飯の準備させて」
「俺はあっためただけ。暦が朝出掛ける前に仕込んでくれただろ」
ダイニングテーブルはランガの家にあったのに似せて二人で選んだ。俺が水のカップを置くと同時、ランガは外したエプロンを椅子にかけながらハヤシライスとサラダを運んできてくれる。漂ってくるいい匂い。我ながら美味しくできたみたいだ。
「今週提出の課題もあるんだろ?あんま寝られてねえんじゃねえの?」
「暦だってアトリエとショップはしごしてるのに、たまに夜更かしして何かしてるだろ。今日早く帰ってきたのは俺なんだから、これくらいやらせてよ」
テーブルの向かいに座って、いただきますと手を合わせる。相変わらず、ランガの食べっぷりは気持ちいい。食べてる時に幸せそうなのは昔からだけど、美味しいってはっきり伝えてくるようになったのは俺と暮らし始めてからだと思う。そりゃあ、俺の上達も速くなるってもんだ。
俺が週一でお邪魔させて貰ってるアトリエは、ショップの常連のボードデザイナーの仕事場だ。何年も独学でボードを作ってた俺を面白がって、遊んでくれているんだろう。ありがたく勉強させてもらっている。将来どうスケートと関わるか、いろんな可能性を探ってみたい。未来は無限大だ。
「わかってるんだけど、なんか申し訳ねえっつーか…」
「……暦、甘えるの下手だよね」
そのうち強制的に甘やかしてあげるから。速いペースでハヤシライスを口に運ぶ間にランガが言う。なんでちょっと喧嘩腰なんだ。整った眉を寄せて、ちょっと不機嫌そうに見える。俺を甘やかす、そんな小さい事にそんな風にたくさん考えてくれるだけで嬉しい。俺もなかなか重症だな。
「あと、新しいデッキありがとう。今日うまくいったのもそのおかげだ」
「お前が頑張ったからだって。まぁでも、そうかもな」
手元を見たままで応える。瞬間、場が静まって、俺のスプーンが動く音しか聞こえなくなる。……ランガの手が止まってる?食事中に?あのランガが?訝しんで視線を上げると、ランガはぽかんと目を見開いている。
「……なんだよ」
「いや、暦が自分のおかげっていうの珍しいなって思って」
そうだろうか。我ながら結構調子に乗りやすいとは思うけど。だけど、これは自信がある。
「お前の事一番見てるのは俺なんだから、お前に一番合うの作れるのは俺だろ」
それだけ言って、食事に戻る。……言ってしまってからなんだが、結構恥ずかしい事を言った気がする。俺の食べる音だけがする時間がもう少し流れてから、向かいで激しくスプーンを動かす音が聞こえ始める。…これもまた、さっきと別の意味で珍しい。ランガはよく食べるとはいえ、食べ方自体は丁寧だ。がっつくみたいなのは滅多にない。
「暦」
だん。皿をテーブルに置く音と一緒に俺を呼ぶ声には、なんだか妙な気迫がこもっている。おそるおそる顔を上げる。すっかり空になったサラダとハヤシと、なにやらぎらぎらした瞳。
「今日の大会。俺、自己ベスト更新したから、ご褒美」
ちょうだい。身を乗り出した分低くなったランガの視線は上目遣い気味に俺を捉える。
そういえばそんな事も言ってたな。Sでのビーフで何か賭けるのに慣れたからか、東京に来てからもスケートの勝負とか大会の時にはご褒美を要求してくる事があった。この前は何ねだられたんだっけな、確か夕飯のメニューとか、一緒に滑りたいコースとか、あとは……
「準備してあるから」
ふわふわと今までのご褒美を思い出していた頭に飛び込んできた単語の意味がわからなくて、思わずまじまじと見つめてしまう。ほんのり目元を染めた表情に……「準備」の意味するところを察して、俺は思い切りむせた。やばい、気管に米が入るところだった。大会動画で着てた俺コーデじゃなくて部屋着に着替えてるしシャンプーの匂いもしたから風呂入ったんだなとは思ってたけど。
げほごほをなんとか落ち着かせた俺は水を飲みながらランガを睨む。睨むというには甘い目をしてるだろうことは自覚してる。むせた俺をちょっと心配するような顔をしてたランガも、俺の目を見たら期待した――甘ったるい表情を隠そうともしない。ああもう、そういうとこさぁ。
「……明日平日だぞ」
「俺と暦の休みがかぶるの週に一回あるかないかだろ。足りない」
俺がやっと口にすると、なんでもないことのようにランガは言う。
「休みの前の夜だって時間合わない事も多いし、時間合ったって昨日は大会前だから駄目っておあずけにされたし。今日は俺へのご褒美なんだから断れないだろ?俺の好きなように暦を甘やかしてあげる。夕飯の支度させて悪いと思ってるならこれで相殺でいいから」
だめ?という上目遣いが俺に効果抜群だというのはいつ覚えたんだろう。ほんのり染まった頬、やわらかく下げられる眉、そんな表情、俺の前以外でしないなんてとっくに知ってる。
なんでまたさらに負担かかるようなことしたがるかな。そりゃ男冥利に尽きるってもんだし、つらくなんかさせないよう努力してるつもりだけど。
上京・同居半年ちょっと親友、相棒。俺たちの関係をあらわす単語は、この同居生活の中でも数を増やし続けている。そのうちのひとつをこんな風に使ってくるランガに、俺はきっとずっと勝てないんだ。