スケートの日々の手入れは割と簡単だ。泥落とし、ナットやウィール各部の緩み確認、あとは時々オイルとか。俺の場合はギアの交換なんかはガレージでやるからだいたいの道具はそっちに置いてあるけど、普段の整備用のオイルや古布とか簡単なものは部屋にも置いている。そうしてると時々、整備しようと思った方には中身が残ってないオイルしか置いてなかったってこともあったりするわけで。
「暦、あったよ」
シャッターを下ろしてガレージに入ってきたランガが作業台にオイルを置く。ガレージに置いてたオイルがほとんど残ってなかったから、俺の部屋にあるのを取ってきてくれって頼んだものだ。先に見てた自分のものはギリ間に合ったけど、今見てるランガのに使うには足りなさそうだったから。
「さんきゅ、んじゃお前の差したら試しに乗ってみて、そしたら行くか」
汚れを落とすところまでしていたベアリングにオイルを垂らして、ウィールを回す。それからもう一度細かい諸々をチェック、する間にも、ランガは隣に座って俺の手元を覗き込んでいる。
「……いっつも思うんだけどさ、なんでお前そんな見てくんの」
お前も家では自分でやってることだろ?そんな面白い?
問えばランガは瞳を瞬かせ、それからやわらかく目を細める。
「暦が整備するところ見てるの楽しいよ。俺よりずっと早くて正確だし、いろんなことに気付いてくれる」
「そんなたいしたことじゃねえけど」
ランガを見られないまま言う俺に、ランガは身を乗り出して詰め寄ってくる。
「同じだけやってても同じようにはできないよ。暦が俺のことよく見ててくれるからだ。だろ?」「まぁ、うん」
どういう練習をどれだけやってるか、どれだけスケートが好きで、スケートに愛されてるか。そういうのひっくるめて、お前のこと俺以上に見てるヤツはいないっていうのだけは、断言できるけど。
「あと、真剣な時の暦の顔かっこいいから見てるの好きだよ。新しい仕掛け思いついた時の暦って、黙ってても楽しそうに口の端が上がるんだ。自分で気付いてないだろ?」
「……もーお前喋るの禁止……」
デッキごと机に突っ伏してしまう。ボードをいじってる時の自分がどんな表情してるかなんて、もちろん知らなかった。だけど、スケートとお前のスケートのことなんだ、好きなもんのこと考えてて、楽しそうな顔してるのは当然だ。だからと言って、本人に言われて恥ずかしくならないはずがない。
「どうしたの、暦」
「俺のことはいいから!早く乗ってみろって、さっさと行くぞ!」
ランガにイエティのボードを押し付ける。今日ランガがうちに来てるのはちょっと遠くのパークに遠出しようって話をしてたからだ。いつもより長く移動する分、ボードのコンディションはいつも以上に念入りに整えておかないと。
デッキに足を乗せるランガを見る。狭いガレージの中、軽くプッシュをしてすぐに止まる。
「大丈夫そうか?」
「うん、いい感じ」
微笑むランガに笑みを返して、作業机から立ち上がる。腰の高さくらいまで下ろされたシャッターの下を掴んで、一気に頭の上まで引き上げる。
――がらがらがら、ぽこん、ばさばさ。シャッターの音に混じって、少し硬い小さい感触とやわらかい土のにおいが降ってくる。
足元を見る。落ちては転がっていくどんぐりと落ち葉。ぱさり、落ちる音と一緒に耳に届く、ちびたちの楽しそうな悲鳴と走る音。
「――……七日ぁ!千日ぉ!」
どんぐりやら落ち葉は双子のいたずららしい。遠ざかる声に名前を呼んでみるも、それで大人しく止まる妹たちでもなく。
「はー……」
息を吐きだして身体を見下ろす。たいしたことないけど、ところどころ土汚れがついてしまっている。普段なら気にしないけど、今日は遠出ってことでいつもよりお洒落気取りのシャツだった。さすがにちょっと、かっこつけたい。ランガを振り返る。
「悪い、俺ちょっと着替えてくるわ。玄関のシーサーのあたりで待ってて」
ランガがうなずくのを気配だけで確認してシャッターを上げ切る。とりあえず洗濯機に放り込みに行くか。俺は母屋へと足を速めた。
自分の部屋で第二候補だったお気に入りに着替えて洗面所に向かうと、洗面台で月日が鏡を見つめていた。後ろに立った俺と鏡越しに目が合う。
「ランガくんと出掛けるんじゃなかったの」
「んー、ちょっとな」
さっき脱いだ服を籠に放り込んで、一応髪も見ておこうと鏡に近付く。自分のヘアアレンジを試してたであろう月日が避けてくれたから、遠慮なく鏡の真ん中に立たせてもらう。
「……っし、これでいっかな……悪い、邪魔したな」
ブラシを持って立ってる妹に手を振って玄関に向かう。瞬間、足の裏に違和感。
「え」
ぐに、みたいな、やわらかい何かを踏んだ感触につんのめる。何歩か変な動き方をしてなんとか体勢を立て直して後ろを見ると、つぶれて転がるのは俺のつぶ塩味の歯磨き粉。ほとんど残っていなさそうな中身が少しだけ出ている。
「歯磨き粉……?なんでこんなもん落ちて……?月日、気付いてた、か……」
拾い上げて洗面台を見上げる俺の目に映ったのは、妹。三人。さっきまでいなかった双子が月日に並んで俺を見ている。俺は思い出した。シャッターのことでこいつら追いかけてたんだった。
「ちろろ、ななか」
名前を呼びながら立ち上がる俺に、ぴゃっと反応した二人は逃げるように走って行く。なんなんだ今日は。いつもはこんなにいたずらっ子でもないのに。
「なんかあったんかな……」
「……やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんだね」
洗面台に歯磨き粉を置く途中で月日がつぶやく。意味が分からない。
「わかんないならいーよ。ほら、ランガくん待ってるんでしょ。早く行きなよ」
意味が分からないのは気持ち悪かったけど、ランガを待たせてるのも本当だ。もう一度月日に手を振って、玄関に足を向ける。
玄関に向かう途中、居間から庭に面した縁側に座る、双子を膝に抱えたランガが見えた。ランガのやつ、玄関にいろっつったのに。双子も、というかうちの家族はみんなしてランガのこと気に入ってるのは知ってるけど、捕まって遊んでやってるんだろうか。
――ふと、頭の中に降ってくるものがあった。ガレージのあれが双子のいたずら――それは本当か?
あの時、ガレージのシャッターは俺の腰くらいの高さだった。ちびたちの伸長はそこまで届かない。手を伸ばしたって、あんな上手く仕掛けることなんてできないはずだ。
歯磨き粉だってそうだ。普段置いてあるのは洗面台の上の方。ほとんどなくなりかけてたのに気付いた母さんが捨ててた可能性もあるけど、ゴミ箱漁っちゃいけないっていうのは教えてたはずだ。
つまり、どっちにも協力者がいる。シャッターとか洗面台の高さに仕掛けられる誰かが。――ということは。
「……うりゃっ」
「!?」
縁側のランガに後ろから抱き着く。ランガの腹に回した両腕をそのまま伸ばして、ランガの両膝の双子の頭を撫でる。挟まれて戸惑った声を出しっぱなしのランガが悪いけど面白い。
ランガごと後ろに倒れる。ランガの胸に倒れこんで楽しそうに見上げてくる二人にランガごしに笑いかける。
「今日はうちで一緒に遊ぶか」
俺を見る三対の瞳。きらきらの千日と七日と、驚いたみたいなランガ。
「……いいの?」
恐る恐る聞いてくるのは千日だ。七日もじっと俺の目を見つめてくる。優しく見えるように笑って、くしゃり、頭を撫でる。
「当たり前だろ。何したい?」
「「すけぼー!」」
「おっ、いいのか?んじゃ被るのと膝と肘の持って来な」
元気に頷いてランガの上から走り出す双子を見送る。潰された体勢のままのランガを抱え起こす。
「ってわけで、遠出はまた今度だな。お前も付き合えよ、共犯者」
なんでグルになってたんだよ?隣に座って肩をぶつける。肩をぶつけ返してくるランガが言う。
「オイル取りに行った時、暦の部屋でボード見ながら暦とやるの楽しいって話してたから、一緒にやる?って言ったんだ」
それでなんであんなことに。
「暦が出掛けるってことわかってたみたいで、今日はにーに遊べないって言うから、じゃあいたずらしようかって」
「お前かよ」
いらずらの主犯が幼児じゃなく十八にもなる高校生だなんて思わなかった。
「暦は面倒見がいいから。いたずらしたら構ってくれるって覚えちゃったんだ」
だから、同じようにすればいいと思って。勝手にごめん、言うランガは、どの程度悪いと思ってるんだろうか。まぁ、一緒にスケートするのには変わりないし、俺の家族と仲良くしてくれてるのも嬉しいから、全然いいんだけど。
「覚えちゃったって、お前が?」
「俺が」
だろ?と首を傾げてくる俺より身長の高い男が可愛い。だからほら、お前のは違うだろっつーの。
ランガの場合は妹たちとは全然違って。構ってやってるっていうか、俺が耐えられくなってるっていうか。いたずらはいたずらでも、あからさまに煽ってきてるわけで。
「ランガのは構って欲しいの意味がちげーじゃん」
お前相手にお兄ちゃんしてるつもりねえよ。
俺の手のすぐ横に落ちるランガの手に触れる。指を絡めて、親指はてのひらをじっとり撫でる。今日だって、そういうことを期待してなかったわけじゃない。
そういうのを籠めて見つめれば、ランガもその気をにじませて目を細める。
「俺も、暦のことお兄ちゃんだとは思ってないよ」
耳に落とされるあたたかい息と甘い声。ふわりと漂う俺の好きな匂い。頬に掠めた軽い感触。やわらかく触れてすぐに離れる瞬間に見えた、とろけた深い海色。全部、ランガが覚えたっていういたずらそのもの。俺を煽るのに効果抜群な。
「ランガ、」
手首を握る。玄関が見える庭先で何するんだとかすぐ双子が戻ってくるだろとか言いたいことはたくさんあったけど、狙い通りに煽られた俺はそんなこと言えなかった。ほんの少しだけでいいから。掴んだ腕を引っ張って立たせて裏手に回ろうとして、
「「にーに!!」」
時間切れだった。
「……行こう?お兄ちゃん」
さっきお兄ちゃんとは思ってないなんて言った口が隣で言う。俺は縁側にうなだれていた。水をぶっかけられたみたいに目が覚めて顔を上げられなかった。それをわかってるだろうランガは、今行く、と双子に叫んで先に行くね、と倒れる俺の肩を叩く。
「今日、泊り支度も準備するものも持ってきてるから」
だから、あとでね。
その声を最後に、遠ざかっていく足音。三人分の楽しそうな声。俺を急かす声。わかった、わかってる、すぐ行くから。けどさぁ。
「だからお前そういうとこさぁ……!!」
絶対かっこ悪い顔してるから、もうちょっとだけ待ってくれ。