特別

  そういえば、二人だけの決勝戦をやった時は、空がうっすら明るくなってきてたっけ。
 ウィールの音だけが響く中、ふと考えた。毎日過ごしてる街だけど、今は目を凝らさないとどこだかわからないくらいに真っ暗だ。日が長い季節とはいえ、夜明けまで多分まだあと数時間。一日で一番暗い時間は今くらいなのかもしれない。

「暦?」

 並んで滑るランガが俺を呼ぶ。ちょっとぼーっとしすぎてたらしい。暗いって考えてたとこなんだし、気を付けねぇと。
 クレイジーロックでサイコーな時間を楽しんで、ドープまで店長に車で送ってもらってからの帰り道。寝静まった街を、ランガと二人走っている。

「悪い、何だっけ。ジョーが吹っ飛んだやつか? シャドウの花火がグレードアップしてた話だっけ」

 闇の中でもランガの姿はよく見える。眉を下げて呆れたみたいに息を吐いて、じっとり俺を睨めつける。

「確かに今日のチェリーはいつも以上にキレがあったし、告白用に改良してるっていう豪華な花火はすごかったけど」

 ぐいっ。向かい合って滑る相棒に手首を掴まれる。引かれる腕に曲がるんだろうと察して方向を合わせる。俺の意思を無視して選ばれた道は、もちろん帰り道じゃない。どういうつもりだよ。離された手を拳にして軽く小突く。

「寄り道」
「え?」
「行きたいところあるって言った」

 だから、こっち。
 つまり、俺がぼーっとしてる間にそういうことを言ってたらしい。寄り道自体は全然いいし、話を聞いてなかったのは俺の方だ。わかった、と頷いてランガの後を行く。
 しばらく滑った先に見えてきたのは、それこそ毎日通っている、

「……学校……?」

 なんでまた。呆けた俺が校舎を見上げる間に、ランガは当たり前みたいに閉まった門を乗り越えていく。おい、不法侵入だろそれ。つーか知ってたけど脚なげえな。

「暦も、早く」
「……いやなんで?」
「いいから。入っちゃいけない、とかなら気にすることないだろ。普段から先生にも警官にも追いかけられてるんだし」

 それはそうなんだけど、なんだかそれとは別の入りにくさがないだろうか。

「……もしかして暦、おばけ」
「っしゃ入っぞ!」

 余計なことを言い出しかけた口をグローブのままの手で塞いで声を上げる。しかめられた眉は『暦、うるさい』とでも言いたいんだろうか。変なこと言おうとする方がうるせえんだよ。

「……んで、どこ行くんだよ」

 正門から校舎の方へしばらく、適当なところで手を離すと、ランガはまた俺の手首を掴んだ。校舎とは反対の方向に歩いていく。口を塞いだまま連れてきたのはランガの目的地とは逆方向だったらしい。

「……ランガ」
「…………」
「悪かったって、なんか言ってくれよ、って、ぅあ?」

 急に手を離されたと思えば、そこはまたフェンスだった。古い金網には、何年のものだろう、『全国大会出場』と生徒の名前が書かれた垂れ幕が何枚もひっかかっている。ランガは躊躇いもなくそれを引き剥がす。

「……うお」

 垂れ幕がかかっていた場所には、破れて人が通れるくらいの穴。たぶん何年も放置されてたであろうその穴を、さすがに戸惑う俺に構いもせずに、ランガは堂々とくぐっていく。

「おい、」
「暦、来て」

 まっすぐに俺に伸ばされる手。俺が手を取ることを疑ってもいない。何度も触れたことがある、さっきだって握られてた白い手に、今度は俺の意思で手を重なる。引っ張られるままに、フェンスの穴をくぐる。本当にお前、なんだって。

「こんなところに連れてきたんだよ……」

 静かに広がる水面。確か二十五×十三メートルくらい。夏休みが終わったばかりの二学期のはじめ、絶賛稼働中の学校のプールが目の前で揺れていた。

「去年、委員会の先輩が言ってたのを思い出したんだ。プールのフェンスに掛かってる旗は壊れてるのを隠してるんだって」

 だから、入ろうと思えば簡単に入れるって。ちゃぷり、飛びこみ台の横、周りよりは一段高くなっているところに座って足先を水に入れたランガが言う。
 ランガは二年生の途中で転校してきたとはいえ、まだ桜が咲いてる時期だった。絶対加入ってことになってる委員会にも当然ねじ込まれた。同じ委員の世話焼きな女子に引きずられていくランガに助けを求めるように見られたのも覚えてる。なるほど、部活にも入ってないランガが先輩と接点があったとしたら委員会だけだっただろう。

「だからってなんで来たがったんだよ」

 ランガの隣、飛びこみ台に座ってプールを眺める。毎日授業で使ってるプールは当然透き通った水が張ってあって、夜空の星を映している。少し行けばすぐ海だけど、それともまた違う風景だ。
 星空が映ってるとはいえ、波が動いてきらきらしてるわけでもないし、タイルやラインが丸見えの人工物。特別なことなんて何にもない。

「なんでだと思う?」

 ランガが俺を見上げる。ランガに下から見られるのは新鮮だ。俺も去年よりは少し背が伸びだけど、ランガも止まったわけじゃない。ほんの少し差が縮まったとはいえ、いつもは俺が見上げる側だ。飛びこみ台の段差もあるから、青い瞳はパークやガレージで隣に座ってる時よりも遠くにある。
 ランガのことなら他のヤツよりは詳しいと思う。だけど、こいつの本当のところはいつも俺の想像を超えてくる。

「わかんねーからきいてんの」
「来てみたかったから」

 ランガは答えになってるのかなってないのかわからないことを言う。曰く、教えてくれた先輩によれば、夜のプールに映る星空がすごくきれいだったらしい。こっそり家を出て夜の学校に入り込む背徳感、そういうのも相まったんだろう、その日のことが特別になったそうだ。

「……それってさぁ」

 足に肘をついて、手のひらに頭を乗せてプールを見下ろす。その先輩とやらにとって特別だったなら、それは他にも理由があったはずだ。
 例えば、誰と一緒に、とか。何をしたか、とか。

「それで、お前の感想は?」

 来てみたかったところに来てみて、どう思ったんだよ?
 肘をついたまま視線だけでランガを見る。腕を組んで身体ごと横に傾いたランガは考えるみたいに唸っている。

「……思ってたほどじゃなかったかな」

 背徳感、はそれこそ夜中にSに行ってたら今更だし、スケートの方がずっとぞくぞくする。星空もいつだったかクレイジーロックで見た方が綺麗だったし、水もいつものパークで見る海の方がきらきらしてると思う。
 俺とそう変わらない感想に頷きながら、ランガの口から出たのはどれも俺も持っている記憶だと気付く。全部、一緒に過ごした時のこと。なんでもない日常のそれを、ランガがそう思ってるんだとしたら。

「だから、今から特別にするよ」

 ひたり。いつもより体温の低い、濡れた手が腕に触れる。泡立つ肌にランガを見れば、目と口の端が上がって、にやりと楽しそうに笑う。
 プールサイド。掴まれた腕。何か企んでるみたいな笑顔。――これはやばい。

「ランガ、ちょ、待、」

 ――ざっばん。俺が最後まで声に出す前に、俺たちは水の中に落ちた。
 思わず瞑った目を開く。自分が吐く泡が上がっていく方向からは月の光、一瞬のあとにランガの影に遮られる
 月明りを背負うランガは水に揺れる髪も深い青の瞳も淡く光って嘘みたいにきれいだ。だけど、頬に触れる白い指の温度が、確かに生きた人間だって思い知らせてくる。
 指先の熱が、顔まわりでも一層薄い皮膚に触れる。青が近付いて、それから、

「――ぷはっ!」

 水面から顔を出す。思い切り息を吸い込んで、目を見開く。ぜえぜえ言いながらプールサイドに突っ伏す。肩を上下させる俺の横、ランガが壁に背を預ける。

「暦、水の中で泳ぐときは鼻で息するんだよ」

 呆れたみたいに言ってくる涼しい顔が憎い。んなこと知ってるよ。つーか泳いだことないのはお前だろ、海行った時も浮き輪使ってたくせに。
 そもそも今息止めちまったのは水の中だったからじゃなくて、
 ――今起こったことを思い出して、水に奪われたはずの体温が上がる。だって、俺はランガのことが、そんなランガが、は?

「お前っ、今、」

 見上げた先のランガの顔に、また息が止まる。
 濡れて重くなった細い雪色の髪が月明かりにきらめいている。水の中で白く浮かぶみたいだった肌は全体が薄く染まって、顔なんか特に赤くなってるのがよくわかる。手が添えられた口元は笑みの形をつくっていて、照れたみたいにはにかむ口元と、下がり切った眉とこぼれそうば瞳。どれをとっても、水中で触れた熱が気のせいじゃなかったことを、なんでそんなことしたのかを、俺に都合よく思わせてくる。
 自分の意思ではどうしようもないくらい、顔面が熱くなるのがわかる。だって、あの日のエアーと同じくらいにきれいなのに、それ以上にめちゃくちゃ可愛く見える。浮かれすぎでかっこ悪くね。たまらなくなって、プールサイドについた腕に顔を埋めてしまう。

「……こんなん、『学校のプール』って話出るたびに今日のこと思い出すじゃん」

 ただでさえ、街中お前との思い出で溢れてるのに。俺何言ってんだろう。さっき似たようなことを言われた気がする。
 落ち着けよ、まだ勘違いかもしれないだろ。突っ伏しといて今更だけど、それでも動揺しているって思われたくなくて、横目で隣を見る。小さく口を開けたまま青い目を見開いていたランガは、

「……あはっ」

 食べる時以外はあまり開かれない口が大きく開いて笑う。眉はやわらかく弧を描いて、目は細められて、くしゃくしゃの幼い表情。
 無限に滑ろうって話した、あの日みたいな。

「すごいな、暦は」

 俺の目にはランガはすごくきらきらして見える。水に濡れてるからじゃない、月明かりの夜だからでもない。ランガ自身から放たれてるきらきら。そのきらきらをまとったまま、ランガは俺だけに向かって笑う。

「俺が考えてたよりずっと、特別になった。暦に出逢ってから、特別なことばっかりだ」

 そんなん、俺だって同じだよ。嬉しいも楽しいも、無限に滑りたい気持ちも、自分の小ささや醜さも、誰かひとりをこんなに想えるんだってことも、全部お前とじゃなきゃ知らなかった。
 それを口にしなかったのは、今全部言うのは違うと思ったからだ。それでも身体中から、胸の奥から溢れ出してくるものは止めようがなくて。濡れて張り付く服ごしに感じる体温。気が付いた時には、胸近くまで水に浸かったまま、自分より背の高い男を抱きしめていた。
 今この瞬間、俺たちは特別だ。

「……あのさ」

 それでも、俺も欲張りだから。
 お前が今を特別にしたくてああしたって言うなら。俺にとってもお前にとっても、特別な今なら。

「……もっと特別に、する?」

 さっき水中でされたみたいに、白い頬に触れながら額をぶつける。至近距離、肩を震わせてふきだしたランガが額を押し付けてくる。

「暦、気障」
「うるせえ」

 我ながらすげえクサい台詞を吐いたと思ったけど、それでも背中に回される手が、もっと触れようとしてくるから。
 形の良い後頭部を片手で支えて、もう片手は頬を包む。伏せられた長いまつげを見ながら体重をかける。
 ぱしゃん。薄い皮膚が触れる小さな音は、もっと大きな水音にかき消された。

***

 暦の初めてが欲しかった。
 だって、俺にとっての初めての親友もスケート仲間も好きな人も全部暦なんだ。
 お弁当のおかずをもらったのも、放課後寄り道してラーメン食べたのも、日が暮れるまで一緒に過ごしたのも、帰ってから長電話したのも、海に行ったのだって。数え出したらきりがないくらい、暦は俺の初めてを奪っていった。
 だけど、逆はどうだろう?暦が一緒にスケートしてた友達がいたのは知ってる。ラーメン屋だって常連だった。海は生まれたころから飽きるほど知ってるって言ってたし、中学時代の初恋の話もクラスメートにからかわれてた。どの初めても、俺が暦と出逢う前に、とっくに俺じゃない他の誰かのものだ。
 俺がこれから手に入れられる暦の初めてって何があるんだろう。
 三年生になってから、そう思うことは多くなった。桜舞う通りで暦と出逢ったあの日から一年。進路、って言葉を聞く機会も増えた。高校を卒業したらどうするか。
 卒業。高校生でいられるのも、理由もなく暦の隣にいられるのも、あと一年。そう思ったら、暦の中の俺をもっと、もっともっと、特別なものにしたくなったんだ。

 夏になると、体育の授業が水泳になった。競技用規格に近く作られた学校のプールで、クロールだとか平泳ぎだとかをテストされる。すぐ近くに海があるんだからそっちでやればいいのに、と思ったけど、そういうものではないらしい。
 水泳の授業は、七月のうちに何度か。夏休みには暦の誕生日を一緒に過ごして、スケートして、大学受験のための夏期講習にも一応参加したりして。――夏休みが終わると、俺たちの「高校生」はあと半年になってしまっていた。
 九月になってからも水泳の授業はあった。まだまだ真夏の威力を落とさない太陽の下、二十五メートルを泳ぎぎって、誰も泳いでいない一番端のレーンで自ら上がる。今日の授業のノルマは指定の本数を泳いで一番いいタイムを記録することだ。俺は本数は今ので終わりだから、あとは名簿にタイムを書くだけだ。とりあえず一旦休憩しようと思って、でも屋根のないプールサイドは暑いから、足を水に入れてに座る。馴染んだ赤を探して視線を巡らせる。
 班が分かれた暦は、俺とは別のレーンを泳いでるはずだ。いつもは本数泳ぎ終わったら俺を待っててくれてるから、きっとまだ終わってないんだろう。泳いでるところか、泳ぎ終えてスタートに戻ろうと歩いているのか。プールサイドに目をすべらせて――ふと、目にとまったものがあった。入口の近く、植木の影。フェンスに何枚もひっかかっているのは、何年前のものだろう、「全国大会出場」と生徒の名前が書かれた垂れ幕だ。
 ぼんやりと、記憶の底から浮かび上がってくるものがある。確か、去年委員会の先輩に聞いたんだ。プールのフェンスの垂れ幕の話。あの布は、何年も直されてないフェンスの穴を隠してるんだって。だけど一部の生徒は知ってて、こっそり伝わってるんだって。
 夜に入り込んだって、その先輩は言ってた。夜も更けきったころ、門限を過ぎてから家を出て、門から施錠された学校に侵入して、フェンスの穴を通ってプールに忍び込む。やっちゃいけないことをしてると思うとすごくドキドキして、星空が映るプールがとてもきれいに見えたんだって。その日のその景色は、とても特別な思い出になったって。
 それって、好きな人と一緒だったんですか?俺はその時、つい訊いてしまってた。だって、先輩の目がすごくきらきらしてたんだ。暦のことを考えてるときに鏡で見た俺の表情みたいに。
 無神経だったかも、って思ったのは言い終わってからだった。だけど先輩は気を悪くした様子もなく、黙って淡く微笑んでくれたんだ。それがイエスだってことくらい、俺にもわかった。

「……そうだ」

 これだ、と思った。今からでも俺のものにできる、暦のはじめて。
 さすがの暦もたぶん、高校のプールに夜に忍び込んだことはないだろう。先輩が感じたっていう「夜抜け出すドキドキ」はいつもSに行ってるからあんまり感じないかもしれないけど、それが暦となら、暦の初めてと一緒なら、それだけで俺にとって特別になれるはずだ。暦と一緒に、夜のプールに行きたい。
 そう決めたら、やるのは早い方がいい。日本には「善は急げ」って言葉もあるらしいし。授業が終わってすぐは部活の生徒が残ってるし、完全下校のあとも仕事をしてる先生はいる。だったら、もっと遅い時間がいい。――そう、Sが終わったあととかぴったりじゃないか。
 次のSの開催は週末。もちろん暦も行くって言ってた。だから。

「ランガ!」

 俺を呼ぶ声に意識が現実に戻ってくる。俺の上にかかる影、肩に触れた熱い感触。見上げればまだ髪も身体も濡れた暦が俺を見下ろしている。

「暦。今終わったの?」
「おう。お前は今日早かったんだな。終わってんならタイム書いてきちまおうぜ」

 俺に視線を合わせてくる暦に頷いて足を水から出す。歩き出しながら、俺はさっき考えてた決意を噛み締めていた。
 今度のSのあと、暦と一緒にここに――プールに忍び込む。

 「初めて夜の学校のプールに忍び込む」暦が欲しかった。暦と一緒なことで「特別」になると思った。本当に、それだけだったはずなのに。
 俺はそんなにテンションが上がってたんだろうか、暦の気持ちも確かめないで、あんなことしちゃって、それでも暦があんな表情で「学校のプール」って考えるたびに思い出すなんて言うから。それって、プールに直接結びついちゃうくらい、俺との今夜が特別になったってことだろ?
 暦の中の俺が、もっと特別になればいい。それが少しでも叶ったって、暦自身に教えられてしまったから。
 ――それどころか、そのあと。

「……何百面相してんだよ」

 俺の髪を拭いてくれた手が止まって、いつもより甘い声が降ってくる。……いや、これからはこの甘さが「いつも」になっていくのかもしれない。だって、俺と暦は、さっき。

「仕方ないだろ。嬉しいんだよ」

 暦の初めてが欲しかった。暦の中の俺を特別にしたかった。俺にとっても特別な思い出にしたかった。それが暦のおかげで、思ってたよりずっと特別な夜になった。
 暦は照れたのか、俺の肩に顔をうずめてくる。暦の体温が、匂いが近くて嬉しくなる。
 でも、俺は欲張りだったみたいだ。手に入ったら、もっとが欲しくなってしまう。
 湿ったままの赤い髪に頬を刷り寄せる。びくん、と反応した暦に嬉しくなる。そっと手を暦の背に回して、耳元にひそめた声を落とす。

「これからもっともっと、俺のこと特別にして」
 暦のはじめても、いっぱい俺にちょうだい。
「……だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 だからお前そういうとこがさあ。
 重なった胸から直接伝わる早鐘を打つ心音。今度こそ笑い声が漏れてしまったせいか、顔をあげた暦が拗ねたみたいに見つめてくる。

「初めて会った日から、特別だよ」

 これから、ずっと、一生。
 近付いてくる吐息に待ちきれなくなって、俺は自分から唇を重ねた。