あったかくて、あまい。

ロリポップ・ハニー

 笑い声が聞こえた気がして顔を上げる。薄く開いた台所の窓から見える外は真っ暗だ。泡のついた手をそのままに窓に近付けば、家の前の通りを歩く人が見えた。
 壁時計を見上げれば十時過ぎ。もうそんな時間になるか。丼を水切りに積み上げて、泡を落とした手を雑に拭って居間の引き戸を開ける。

「かーさん、俺もう少ししたら出るから」

 台所と違ってあたたかい居間では、こたつに入ったばあちゃんが恒例の歌合戦を眺めている。あれ、母さんは。俺が声に出す前に、反対側のふすまから母さんが顔を出した。

「あれ、暦。どうしたの台所なんかに」
「普段から飲み物取りに来たりはしてるだろ……じゃなくて。俺もうすぐ出るから。んで、年越しそばの洗いもんしといたから」

 目を丸くする母親に耐えられなくて、台所に逃げ戻る。居間とは反対側から自分の部屋へ戻ろうとして、先回りしてきた相手に捕まった。

「どうしたの急に。何か変なもの食べた?」
「てねーよ! 今日はずっとうちいたろ!? ……でも、今から出掛けるから。いつもみたいに、明けてからうちにいらんねーから」

 だから、せめて。俯きながら絞り出した言葉への反応がなくてちろりと見上げれば、今度は口まで開いて驚いている。

「普段何してるわけでもないのに殊勝なこと言っちゃって……」
「放っとけよ」

 母親を押しのけて自室に向かう。背中に聞こえる笑い声が俺を追いかける。

「大きくなったなぁって思ったのよ。女の子と年越し初詣行くなんて」

 高校生のうちに彼女できるなんて思わなかったわぁ。足を止めてため息をつく。それこそ放っとけっつーの。

「あのさ、」
「いい男に育ってくれたから、何も心配してないよ。ちゃんとエスコートしてあげるのよ」

 そのうちお正月にも連れてきなよね~。母さんはのびた声で言いながら居間に戻っていく。今のはたぶん、明日とかに遊びに来るとか、そういう意味じゃなくて。

「…………気が早いっての……」

 ヘアバンドを掴む。通り抜ける風が頬を冷やすのを感じながら、俺は部屋へと向かった。

 一緒にお参りに行こうって約束をしたのは十二月に入ってすぐ。待ち合わせの時間と場所を指定されたのは先週になってからだ。海沿いの神社って話だったのに、メッセージにあった待ち合わせ場所はなぜか俺たちのバイト先。落ち合うのなんか、いつもの朝の丁字路でもいいし、なんなら家に迎えにだって行くのに。不思議に思いながらもドープへスケートを滑らせる。
 石畳の入り口でデッキを蹴り上げて店へと歩く。中の電気はついていない。今日は岡店長が一人でやってたはずだけど、そういえば早めに見せ閉めるって言ってたっけ。店の中に入れないとすれば、いよいよ待ち合わせ場所の理由がわからない。首を傾げた時だった。

「こっちだ」

 凜と通る声に振り向く。ドープの裏、豪奢な和風建築の前に、着物姿の女が立っている。

「チェリー! どうしたんだよ、年末年始は忙しいんじゃねぇの?」

 つい「チェリー」と呼んだのを咎められるかと思ったらそんなことはなく、稼ぎ時のはずの書道家は満足げに屋敷の門の方を向く。

「テレビ番組の収録は済んでるし、イベント出演は午後からだ。大晦日と元旦は働かないと決めてる」

 食事の手配も済んでるしな、というのはどこぞのシェフのことだろうか。レストランもクリスマスとか年末年始とか忙しそうだけど。

「それに、今年はちょっとした楽しみがあった」
「へ?」

 機嫌の良さそうなチェリーを見ると、扇子で屋敷を示される。出てきていいぞ、の声に入口で動く気配。出てきた姿に、俺は言葉が出なかった。
 着物だった。最近はチェリーで見慣れたと思ってた。だけどランガの着物姿はそれとはいつものチェリーの着物とは全然違った。
 まるで、降ったばかりの雪みたいだった。
 真っ白な着物の片口には少しだけ同じ色の花が散る。衿に重ねられた赤が鮮やかだ。濃い紺色の帯の下、裾に向かってグラデーションに染められた水色や紫の上には青や黄色の大振りの花が咲いている。長く垂れて揺れる袖にも同じ模様があしらわれていてすごく華やかで、ランガのもともとのきれいさを一層引き立ててるように見えた。
 いつもは背中に流してる長い髪は今は結い上げられて、花飾りに彩られている。あらわになったうなじとそこから流れる髪に俺は気付かず唾を飲み込んでいた。

「馴染みの呉服屋で見つけた友禅だ。これはさぞ似合うだろうと思って仕立てさせた。ランガは素材が良いからな、帯や小物を合わせるのは楽しかったぞ。飾り結びも映えて着付けた側としても誇らしい。伊達衿は同系色がいいだろうと言ったんだが赤がいいと言って聞かなくてな。そこだけじゃ浮くから鼻緒の色と合わせたが――おい、聞いてるのか」

 扇子で頭を叩かれてはっとする。チェリーに指された方を見れば不安そうなランガが玄関に立ったままだ。俺は慌ててランガに駆け寄る。表情を和らげたランガが俺を見上げる。間近で見る晴れ着姿がまぶしくて、目を瞑りそうになる。

「暦?」

 挙動不審な俺にランガが首を傾げる。ああまた可愛いことを。じゃなくて、不安にさせたいわけじゃねーのに。

「悪い、……その」
「お前に見惚れてたんだ、こいつは」

 後ろから言うのはもちろんチェリーだ。思わず振り返りそうになった俺が留まったのは、ランガが手を握ってきたからだ。冬の気温に冷えた俺の両手を、あたたかくてやわらかい白い手が包み込む。かかとを上げて顔を寄せてくる。きらきらした海色が近付く。

「本当? 似合ってる?」

 視線を迷わせる。可愛すぎて直視できないくらいだ。そこまではっきり言えない俺は、ランガの顔を見られないまま応えるのが精一杯で。

「……おう。似合ってる」
「じゃあ、」

 俺の手をあたためた手が離れて、俺の頬に寄せられる。迷ってた俺の視線を捕まえたランガはふわりと目尻を下げる。

「かわいい?」

 ――もう少しで抱きしめるところだった。可愛いに決まってる。着物が似合ってるってだけじゃない、そうやって訊いてくるところとか、表情とか仕草とか、俺なんかを思ってくれるところとか、お前の存在全部、

「…………すげー好き……」

 無意識に零した言葉に気付いて、俺はヘアバンドをつかんで下を向いた。頬に添えられてたランガの手を振り落としてしまったのがわかったけど、そんなの気にしてられない。
 だって今、ランガが全身で嬉しいって反応してくれてるって思うのは、多分自惚れじゃない。そんなランガを見たら、俺は今度こそ抱きしめたいのを押さえられる自信がない。

「……ねぇ、暦」
「ランガ、お前バッグは」

 ランガを直視できそうにない俺を、さっきは追い詰めてきた声が救った。理解が追いついていなさそうなランガの声が重なる。

「バッグ……」
「スマホと財布入れてたの鏡の横に置いてたろ。持ってこい」
「あ、そっか。じゃあ暦、もうちょっと待ってて」

 きゅっと袖を掴まれて、俯いたままの耳元に声が落ちてくる。俺が反応するより先に手は離されて、顔を上げて見えたのは帯の花が咲いた後ろ姿だった。
 着物のせいかいつもより歩幅が小さいランガがぱたぱたと奥に消えていくのを見送る。どうしよう、ランガが、俺の彼女が、

「めちゃくちゃかわいい……」
「そうだろう」

 びびりすぎて飛び上がったかと思った。いつの間にか俺の後ろに来ていたチェリーは満足そうに口の端を上げている。俺はおそるおそる口に出す。

「……高いんじゃねーの、ああいうの」
「さすがにわかるか。コンプリートデッキなら二十枚は下らないだろうな。お汁粉とか零させるんじゃないぞ」
「……努力する」

 大真面目に呻いた俺に、日頃からの着物美人は楽しそうに笑う。

「半分は冗談だ、今回は私が楽しんで着せ替え人形にしたんだからな。格安のレンタル代だけでいい。折半したいなら後でランガに聞いておけ」
「半分は冗談じゃないのかよ……」

 顔を覆う。もうやだ、わけわかんねえ。

「まぁ、ふざけるのはこれくらいにして」

 俺をからかっていたチェリーは今度は少し真面目な声になる。

「取り置いておく。結納なんかするなら親と相談して買い取りに来てもいいぞ。利子は安くしておいてやる。色打掛とかも扱ってるところだから必要ならそういう相談も受ける」

 目を見開く。だって、チェリーが言ってること、

「全然わかんねえ……」
「…………」

 眼鏡の向こうの瞳は呆れ返っている。俺は何を言ったんだろうか。

「……まぁいい。あとはそうだ、もう一つ言っておくことがある」

 胸ぐらを掴まれる。「桜屋敷先生」からはとても想像できない、凄んだ低い声が放たれる。

「いいか、和服のイメージで食ってる身だからこそ言うが、現代の着付けなんぞ戦後礼装として広められた窮屈なものにすぎん。普段着にするなら適当でいいんだ。今回は未婚の第一礼装である振袖だから型に則って着付けたが、あいつは起伏があるから補整も多い。脱がせたらタオルがボロボロ落ちてくるぞ。万一『お代官さま~』とかを期待してるならそんな幻想は置いていけ」
「何言ってんのかわかんねえよ」
「それと、姫初めは二日の夜だ」
「ひめ」

 動きの止まった俺にチェリーがニヤリと笑う。なんだ、それが何かはわかるのか、という感じだろうか。うるせえ、別にいいだろそんなもん。

「んなこと言われたって……そこまで、してねえし」

 文化の違いから来る勘違いを解いて、晴れて「恋人」と呼べる関係になったのが先月のこと。すでに付き合ってると思ってくれてたランガはあの時ものすごく大胆なことを言ってた気がするけど、俺の覚悟ができてないのもあって、そういう話はできないでいた。

「……は? お前、男としての機能に問題があるのか?」

 めちゃくちゃに眉を寄せて吐き捨てられる。なんてことを言うんだこの書道家先生は。

「しかしまぁ、元気すぎて節操ないよりはマシか……?」

 ジョーのことだろうか。そういえばこの二人もどういう関係なんだろう。
 そんな変なことを話してる間にランガが戻ってきた。さっきまでは持ってなかった巾着袋を持っている。荷物はこれだけなんだろうか。

「着てきたものは明日まで預かると親御さんに言ってある。お前もボードは置いてけ。あとこれを持ってけ」

 チェリーが俺のボードを回収しながら押し付けてきたのは大きめのトートバッグだ。上からは暖かそうな生地が覗いている。ストールだろうか。

「ランガ、着崩れた時の道具とかこいつに持たせるぞ」
「ありがとう、チェリー。暦も持たせてごめんね」
「お、おう」

 着崩れって言ったか。着崩れってどう崩れるんだ。屋外で大丈夫なもんなのか。そんな思考を巡らせながらも、ランガに促されて書庵の前から歩き出す。そうだ、本来の目的は初詣だ。隣を歩くランガを見る。

「えっと。それ、普通の靴じゃないだろ。駅までちょっと歩くけど足元大丈夫か?」
「うん、ありがと」

 着物の時履くのは草履? だったか。いつもと少しだけ違う高さでランガの頭が揺れている。歩きながらもう一度着物姿を眺める。……やっぱり、すげーかわいい。

「暦?」
「ん、やっぱ似合ってんなって」

 かわいい。今度はちゃんとそう言えば、ランガの表情が嬉しそうにほころぶ。

「ありがと。暦もかっこいいよ」

 実は、今日着てきてるのは初めておろしたジャケットだ。なんてことない初詣だけど、ちょっとでもかっこつけたくて。
「……さんきゅ」
 気合い入れてきてよかった。それに励まされて、もうちょっとかっこつけてみることにする。横で揺れてた手を握る。ランガがこっちを見たのがわかったけど、目が合わせられずに俺は前を向いたままだ。

「……暦」
「神社の駅着くまでな」
「じゃあ、モノレール乗ってる間も繋いでてくれるんだ?」

 俺の安っぽい作戦はすぐに見破られてしまう。ふふ、甘い笑い声が聞こえる。細い指が俺の指に絡められて、きゅっと握られる。どうにかなりそうだから、そんなに嬉しそうにしないで欲しい。
 駅まで歩いてどれくらいだっけ。このまま歩いていられる時間を考えながら、俺は握った手に力を込めた。