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この街には人魚の伝説がある。人間の男に恋した娘が、人の脚を得る事を魔女に願った。魔女の薬により願いを叶えた娘は男に近付き、二人は仲を深めた。正体が人魚だと知れても二人の絆は強く、想いを通わせた娘と男は婚姻を遂げたという。
男が領主家の跡継ぎだった事もあり、人魚を娶った話は街、島中に生き渡った。ハッピーエンドの異類婚姻譚は数々の芸術のモチーフとなった。元から海の恵みへの感謝の意味があった祭も、舞の演目に人魚との恋物語を増やした。
伝説の真偽が確かめられなくなった現代でも町興しに掘り起こされ、人魚饅頭などをはじめとして観光産業を盛り立てている。
伝説となって久しいが、これは実話だ。そして、この話には知られざる続きがある。
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「遅い」
主人の私室の扉を開けるなり、低い声が飛んでくる。豪奢な寝台に座った男が、こちらを見ないままに言う。
「……申し訳ございません」
私はこちらを見ない主人にに一礼し、声の元へ近付く。トレイを枕元の棚に置く。繊細な細工が施されたそれがコトリと音を立てる。
用意してきた手袋を嵌める。トレイに乗せていた瓶を開け、蓋だけをトレイに戻す。瓶にスプーンを差し入れ、中身を掬って持ち上げる。粘り気のある琥珀色、蜂蜜によく似たそれ――領主家に伝わる秘薬が、どろり、スプーンから瓶の中に落ちる。
瓶とスプーンを持って主の正面へと向かう。果たしてそこに座る男は、燃えるような青い髪と凍てつくような赤い瞳のその人は――ガウンから覗く下半身が、魚の尾の形をしていた。
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魔女によって二本の脚を得、人間の男と交わった娘が産んだ赤子は、魚の尾を持っていた。生来の母親と同様、人魚として生を受けたのだ。
男は権力のある家系の跡取りだった。子供が人でないなどと公表はできない。このままではどこからか赤子を攫ってすり替えるしかない。
血を分けた赤子を愛したかった夫婦は――人魚だった娘は一計を案じた。魔女の秘術、己が脚を得た時の薬を、彼女は残してあった。それを赤子に与えたのだ。
薬の効果により赤子は人の脚を得、すべては解決したかに思われた。
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瓶の中身をかき混ぜる。どろり、ゆっくりと渦を巻いたそれをスプーンに掬い取る。音もなく、瓶を主人に近付ける。口が開かれる。肉の色を見せる咥内に、血のように赤く伸びる舌の上に、粘度のある液体を垂らしていく。垂らしたそれは厚い舌に絡めとられ、唾液と交じり合って喉の奥へと飲み込まれてゆく。二度、三度、繰り返すたびに上下する喉を見やる。
「……ん」
ごくり。音を立てて鳴る喉に、その人を見る。氷の赤には私が写り込んでいる。手が、私の頬に伸びてくる。
じゅっ、かすかな音と同時、焼けたような匂いがする。
凍える赤に射抜かれたまま、その手を私から引き剥がす。ガウンの袖に包まれた腕を手袋を嵌めた手で引き、私から離れた手のひらを見る。――赤く焼け爛れ、白い煙を上げている。
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魚の特性を色濃く持つ人魚は、生来熱に弱い。特に月に数日、恒温動物の体温程度の温度で火傷をするほどに皮膚が弱くなる性質があった。
薬の量が不足だったのか、赤子に飲ませたからか。長く陸で過ごした影響か、あるいは海を離れた者への海神の呪いか。赤子が年頃の少女となった頃、それは発現した。熱に弱い性質が、母親ら人魚より遥かに顕著に表れたのだ。
父親の指先が触れた腕は溶けて爛れたようになり、激しい痛みに泣き叫ぶ少女の脚は魚のものに変わっていた。
少女の母親――かつて人魚だった娘――は再び魔女を頼った。少女は脚を得る薬を手に入れたが、その効果は短く、毎月症状のたびに服用する必要があった。薬によって脚を得ても、月に数日の期間は肌は弱いまま、火傷の治癒を速めるものの、火傷自体を防ぐ事はできなかった。
代が下り、彼女以降人間としか婚姻しなかった家系は次第に人魚の血が薄れ、人魚の再現も次第に減っていったが、薬の製法は秘伝として伝えられた。先祖返りとでも言おうか、稀に人魚の特性を持った子供が生まれると、魔女が予言していたからだ。
領主家の家系図に何度か登場する、魚の尾と人の体温で爛れる肌を持ち、人としての生に魔女の薬を必要とする存在。
――今代の当主も、それだった。
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「……戯れはおやめくださいと、何度も申し上げたはずです」
肉の焼ける匂いが漂う。主人は不機嫌そうに眉を吊り上げる。
「僕に意見するのか」
鋭く向けられる赤から視線を逸らし、そんな事は、とだけ返す。――逸らした視線の先、彼の脚は人のそれに成っている。
「……変化したな。着替える。手伝え」
短く諾を答え、手袋を嵌め直す。万一にも肌に触れたらことだ。
主人の衣装を整えながら思い返す。――彼の体質が発現した頃の事を。
領主家の文献によると、人魚から生まれた娘が初めにそうなったのは十五の頃。その後数代、また数人存在した先祖返りの発現も軒並み十代半ばだ。海の人魚も同様らしいことがわかっている。恋愛感情が引き金になるのでは、などと残していたのはどの時代の研究者だっただろう。
そうだ、主人も十七ほどの頃だった。あの頃私は今の主人の父上に仕えていて、主人は夜な夜な友人と遊び歩いていて――そこで、恋をしたのだろうか。
かつて、家の重責に耐えかねてか屋敷の外で泣いていた幼い彼に声を掛けたのを思い出す。私に心を開いてくれて、やわらかい笑みを見せてくれた――それが凍てつく視線に変わったのも、体質が発現した頃からだっただろうか。
「人魚の調べは続けているな」
主人の言葉に頷く。ならいい、と落とされる言葉を聞きながら見渡した部屋に、塵箱に打ち捨てられた額――見合い写真を見付けた。
主人は伯母達が次々に持ってくる縁談に応える気がないようだ。人魚の血を後世に遺すつもりがないのだろう。
そして、主人は人魚を求めている。初めに酷い火傷体質を発現した娘は、母親――生来の人魚だけは、触れても何も起こらなかったという。
触れられる唯一の相手と添い遂げ、血を絶やしたいのだろう。私はそう考えている。
家が絶えようと、あなたが望むのなら、私は。
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夜遊びに出掛けた街で出逢った友がいた。彼らは互いにとってかけがえのない存在で、僕は彼らに気付かされた。僕にも慕う相手が、求められたい相手が、幼少の頃からいたのだと。
きっと、それが発現のきっかけだった。かつての研究者が記した通り。『恋愛感情の自覚』だ。
皮肉なものだ。恋を意識した瞬間に、想い人に触れられなくなるなど。
奴になら溶かされても構わない。そう願ったとしても、環境がそれを許さないし、あの朴念仁は気付きもしない。
だから僕は、現代を生きる人魚を求めている。それは当主のみに伝わる文献の一節に依る。
『人と人魚の混ざりものは、人の肌に触れるとその肌が酷く焼け爛れる。薬となるのは海のもの――人魚の血肉や体液は特に効果が高いと思われる』
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