眠くなると評判の生物教師がの話し声が聞こえ始める。言われる通りのページ、ではなく、教科書の真ん中あたりを開く。一番バランスがいいからだ。
教科書を立てて、外側を資料集で覆う。教科書は厚くて倒れにくいけど小さすぎて、資料集は髪が薄くて倒れやすいけれど大きい。重ねて机に立てれば、一番後ろの席では教壇から見えないそこそこ良いバリケードになる。
さて、どうしようか。昨夜あいつが送ってきた動画をもう一回見ておこうか。それとも雑誌に載ってた設計の再現を描いてみる?鉛筆を持つのに教科書から手を離す。薄い紙の資料集が途端にバランスを崩す。挟んであった何かがこぼれ落ちた。
「…………」
先週の、だったっけ。小テストの答案はマルよりペケの方が断然多い。補習課題をする羽目になったのは記憶に新しい。次あったら今度は居残りって言われたっけ。
赤点補習で滑る時間が削られるのは御免だ。そろそろ真面目に聞いた方が良いかもしれない。教科書と資料集を持ち直し、開いたページに視線を向ける。さっきの小テスト範囲の次だから、たぶんこの辺をやってるはず。
カラフルな図説が資料集に踊っていた。
「暦」
ランガの声に横を見る。前を指さすのに従って教壇を見れば、眠い声の教師が教室を出ていくところで、でも時計の針はチャイムの時間を指していない。授業が早めに終わっていたらしい。
「暦、今日は結構ちゃんとノート取ってたね」
「そういうわけでもねえんだけど」
ノートには少しの板書と、それ以上の絵が散らばっている。そのうちのひとつは∞があしらわれたデッキのデザイン。次に新調するときにはデザインに組み込みたいと、あのときから思っていた。それにまぎれている、近い形にデフォルメされた、消されゆく黒板にあった図形に似た。
「……遺伝子?」
「なんかちょっと、形似てるなって」
二重螺旋が二回交差することでできるレモンのような形、それをふたつだけ切り取れば、無限に見えないこともない、と思う。もっとも、二本の間をつなぐものも何本もあるけれど。
似ていると思ったのは、形だけじゃなかった。
遺伝子。大昔、生命が生まれたころからつながって、これから遠く未来につながっていくもの。その果てしない時間は紛れもなく無限だ。裏面のない帯をなぞるように、どこまでも続くもの。
そんな時間の中では、人の一生なんてあっという間だ。暦自身も同じ。ものすごく、ちっぽけな存在。
ノートの無限に落としていた視線をランガに向ける。楽しそうに暦のノートを見ている。たぶん、絵やボード作りのことも含めて「暦ってすごい」と思ってくれている、そんな表情。
ランガがいるからだ。暦と滑ると楽しいと、暦と滑りたいと、言ってくれるから。わくわくするすごい滑りをするから。負けたくないと思うから。ランガと滑ると楽しいと、一緒に滑りたいと、暦も思うから。
人間なんてちっぽけだ。だからこそ、せいぜい八十年とか、暦の無限なんてのもそんなものだ。今の歳の何倍かの長さだけど、気の遠くなるような時間に比べたら、全然なんとかなる気がしてくる。
どんなことがあっても、暦からはランガの手を離さない。ランガも同じ気持ちでいてくれるって、今なら信じられる。
――なんてことは、照れくさくて言えるはずなくて。
「この無限と遺伝子で新しいデッキ作るの?」
「いや無限はともかく遺伝子はちょっと」
「センスあるのに」
声を上げて笑うランガは褒めているのか、からかっているのか。白い指がノートの上の二重螺旋を辿る。
「俺も、授業聞きながら暦のこと考えてたよ」
さらり、前髪を揺らして、涼やかな声が流れる。
「遺伝子って、身体の設計図だって言うから。人間をどう造るかの情報が入ってて、個人の特徴とかもその中に書いてあるって」
透き通る声が弾む。
「だったらに惹かれたのも、そういうことなのかもしれないなって」
俺の遺伝子が、暦の遺伝子に呼ばれたんだ。
気付いた時には机に突っ伏していた。頭を抱える。じわじわと顔が熱くなっているのがわかる。
――ほら、これだ。そんなことを、そんなに嬉しそうに言うから。
想われてると、信じきれてしまう。だって、遺伝子が呼び合っているんだっていう。そんなの離れられるはずがない。
「あーーー」
「暦?」
「なんか悔しいな」
「え?」
「おまえがすげーかっこよくて」
「暦もかっこいいよ?」
「そうじゃなくて」
深呼吸して、覚悟を決める。だってこれじゃあ全然フェアじゃない。暦はランガの隣にいたいのだ。
「な、さっき考えてたこと、教えてやろうか」
俺たちのちっぽけな無限の話を、おまえは笑ってくれるかな。