左耳に届くカウントに合わせ、白い路地に黄色いボードが跳ね上がる。先程まで踵をひっかけていたデッキは今度はくるりと周り、前後を入れ替えた位置で足裏が掴んだ。軽快な着地音が路地に響く。
落ちる静寂。――しかし静けさは、一瞬の後に破られた。
「お、おおおおおおおお~~~~~~!!!!!!」
視線の少し先で、赤毛が歓喜の咆哮を挙げている。左手ではガッツポーズを、右手は耳を押さえている。さらにしばらく余韻に浸ってから、仔犬はこちらを向いた。
「すっげ~~~~!!今まで一度もできたことなかったのに!!カーラすっげー!!」
「当然だ」
右手にあるのは俺の左耳にあるものの対のイヤホン。デッキの数カ所に取り付けたセンサーチップはカーラの分身だ。それらが収集するデータはカーラ本体に集められて解析され、トリックの動作に最適なタイミングがイヤホンに届く。無論、俺の正確さの足元どころか指先にすら及ばないが、ある程度までのトリックを練習するには十分役立つ。
「成功時の感覚は掴んだな?」
「おう!テール弾くとこがダメなのはわかってたんだけど、正確にわかるとこんな違うんだな。できる感じも覚えた。すげー参考になる」
暦は決して能力が低いわけではない。一人での練習を見ていても、トリックのために自分に足りていないことが何かおおよそ正確に把握している。試行錯誤を重ねれば遠くないうちに実になっただろう。カーラはその過程をショートカットしてやったに過ぎない。
よく人を見ている。Sでのランガをより化物たらしめている狂った仕掛けのボードはこいつの案と制作だというし、スケートの基礎を教えたのもそうだ。
うちからの面接帰りのランガがこの場所で初めてボードに触れてからわずか半年程度。驚異的な成長速度は暦の力あってこそと言えるだろう。分析や発想、それを反映したボード作り。それに教育は人並み以上だ。
本人はそれを、優れた点だと自覚していないようだが。
「てか、なんで俺にこんな教えてくれんだ?すっげー貴重な技術なんだろ、カーラって」
金払えって言われても無理だと思う。大真面目な顔でイヤホンとチップを手渡してくる。受け取りながら、鼻で笑ってやる。
「高校生のガキにそんなもん期待してない」
今のように二十分以上離れても責められない暇な店のバイトだ。パーツにも金が掛かるし、払える額などたかが知れている。勿論、足りるはずがない。本来ならば。
「そうだな、お前とのビーフで泥まみれになった愛抱夢には笑わせてもらった。雨に賭けて健闘したことへの褒美だ」
「なんだよそれ……」
「受け取っておけ。それとも宮古島の食事代もまとめて請求されたいか?」
「……アリガトウゴザイマス」
そう、人間素直なのが一番だ。それにしても。
「お前も物好きだな」
練習していたトリックは、確か先日ランガが決めていた高難易度トリック――の前段階のものだ。当然ランガは既にできるのだろうし、恐らく暦はランガと並んで決めたいのだろう。グーフィーのランガとは、向かいあって滑ることになる。シンメトリーとは画になるものだ。これが安定したらランガがやっていたトリックの方も練習を始めるのかもしれない。
ランガは紛れもなく化物だ。あの愛抱夢にすら勝ってみせた。こいつも自分との違いをわかっていないはずはないだろう。それでもなお、Sに帰ってきてからの滑りからは、ひとつの意思が如実に感じられる。ランガと滑りたい、と。
俺の表情から言わんとすることを察したのだろう。暦は歯を見せて笑う。
「あんなかっけー、すげー滑りするヤツ、一緒に滑りたくなるだろ。負けたくない」
その表情から、いや、全身から発する感情は、最上級の「楽しい」、それだけだ。愛抱夢とのビーフの後でさえ、空を仰ぐなり言い放った言葉。
「それにチェリーだって何度も愛抱夢に挑もうとしてるだろ」
似たようなもんじゃね?心底不思議そうに首を傾げる。つまり、こいつがランガと滑りたい感情は、俺が愛抱夢に向ける感情と同じだと。意識せず眉が上がる――心外だ。
「一緒にするな」
「一緒だと思うんだけどなぁ」
なるほど、このガキはよほどシバかれたいらしい。ぱちん。扇を鳴らす。
「いでっ」
ぺしり。俺の一撃に赤毛がしゃがみこむ。大人を揶揄うからだ、ガキめ。
「それにさ」
それでも暦はうちの壁に寄りかかりながらもなお続ける。どこか、遠くを見ている。
「前にさ、あいつにひどい態度取っちまったことがあるんだ。俺が愛抱夢とやる少し前」
Sに現れなかったころのことだろう。なるほど、ジョー戦前半のスノーの滑りは、とても見ていられるものじゃなかった。――まるで、荒野に独り放り出された迷子のような。
「ひとりぼっちになっちまってたし、あいつのこともひとりにしちまってた」
「……ひとりぼっち、か」
どこかの類人猿がそんなことを言っていたな。愛抱夢はひとりで滑っていると。
だが、そんなものは。俺は左手首を見る。俺の愛しのカーラ。
――あの頃、毎日が祭のようだった。けれどあいつは変わってしまった。俺が焦がれたあいつではなくなり、俺には追い付けない高いところで、何かを探すように。
隣にいたあいつもそうだ。俺を置いて行ってしまった。俺ではない方をまっすぐ見て。――だから、俺は。
鈍く光る手首の彼女を撫でる。暦の声が続いている。
「だけどあいつは、俺がバカなこと考えてうじうじしてる間も、俺を待っててくれた」
一緒に滑りたいって、言ってくれたんだ。
――風が吹いた。少し肌寒い夕方の風が、俺の長い髪を、目の前の赤毛を揺らす。
「ひでーことしたのは俺の方なのにな。甘えちまってる。……だからもう二度と裏切らない。あいつがすごいとかかっこいいとか、一緒にいたいって思ってくれる俺でずっといたいから」
俺も、ずっとあいつと一緒に滑ってたいから。
――その時の暦の表情を、俺は初めて見た。
頭の良くないスケートバカなガキではない、言うなれば――そう、祈るような。
――同じ顔をする男を知っている。
『CLOSED』の札の中で、待っている男を知っている。
離れたのは自分のくせに、俺の知る距離感で迎える男を知っている。
存外ドライな男が作り上げる、相手が変わらずにいられる場所が、そんな理由で作られるものだとしたら。
その空間を受け入れる事を、そう呼ぶのだとしたら。
あの男は。俺は。
「……気付きたくなかった事に気付いてしまった気がする」
「へ?」
「なんでもない」
俺の声に重なるように、石畳の表通りから声が聞こえる。ランガだ。配達に行っていると暦は言っていたか。
「やっべ、店番戻んなきゃ」
じゃ、ありがとな!ボードを抱えて走り出す前に見えた暦は、幸せそのものみたいな表情。
その単語は、恐らく気付きたくなかったそれと遠くない場所にある。ひとつ仮定してしまえば心当たりが多すぎるのだ。例えば、俺が入院先から抜け出した夜のこととか。気に入らない。
「今度会ったら覚えてろ」
零れた自分の声は、吐きたくなるような色をしていた。