とある司書の手記

You make me Rainbow

 高台の領主の館から少し、かつての別館だったという洋館は、当時のきらびやかさを想像させる佇まいのまま、今は図書館として開放されている。大きな窓から陽が差すロビーも、高い書架が並んだ静かなホールも、我が勤め先ながらとても好きな場所だ。
 返却図書を積んだカートを押していた私は、地元民俗学の棚に赤色を見付けた。図書館なんかとは縁のなさそうな、しかしここ最近よく現れるようになった色。
 彼は細工師見習いの青年だった。祭での祭具などを作るのを志す彼は、楽器や歌にも率先して参加してくれる。彼を知る島民は多いだろう。
 そんな根っからアウトドアで、興味のない教科書を開いたら寝そうな彼は、最近島の歴史の本をよく見に来ている。正確に言うなら『人魚』の本だ。
 この島には伝説がある。その昔、領主家に人魚が嫁いだという話だ。島の祭も人魚にちなんだものだし、アクセサリーや饅頭といった土産物にも人魚の名がつけられている。人魚の文献は、子供向けの絵本や観光雑誌、領主家の記録や民俗学的研究など、色々なものが収められている。
 実は、人魚の目撃情報は、何百年も前に領主家に嫁いだ彼女だけではない。割と頻繁に――十年に一度くらい、海辺で一目惚れしたのが人魚だったとか、そういう話が上がってくる。もしかしたら、赤毛の青年も淡い想いを抱えて、文献に手がかりを求めたのかもしれない。
 不意に、彼に近付く影があった。背の高い、色味のないスーツに身を包んだ、泣き黒子の男。私は彼を知っていた。領主家の筆頭使用人だ。
 人魚の血を引くと言われる領主家だけれど、当代の領主は特に人魚の情報を集めていると聞く。最近急に不自然な調べ方を始めた青年の事が耳に入ったのかもしれない。
「……人魚の事を調べているのか?」
 泣き黒子の男が赤毛の青年の背後から囁く。易しそうな本を選んで開いていた青年は、びくりと背筋を震わせ、男を見上げる。
「……誰、あんた」
「領主家に仕える者だ」
 彼が求めている答えはそうではないと思う。
「かつて人魚が嫁いだのが領主家というのは知っているだろう。領主家は彼女以降にも、秘密裏に海の人魚と交流していた。協力を得、研究した記録が残っている」
 急に何を言い出すのか。青年はそう言いたそうに見えた。急にそんな信じがたい、でも自分が求める情報を提供してくれるような素振り。私が同じ立場でも怪しむ。男は何がしたいのか。
 それでも関心はあるのだろう、聞く姿勢の青年に、男は図書館らしいひそめた声で続ける。私も側で配架しながら耳を傾ける。
「例えば、こんな話がある。人魚は月に数日、皮膚が地上の環境に弱くなる。夏の日光や恒温動物――人間の体温ほどの温度で、火傷のような痛みを覚えるようになる」
 日焼けで肌が赤くなるタイプの人間がいるだろう。あんな感じだ。すごく身近な例を出して男は言う。
「……人肌が熱く感じるとか、ぴりぴりするとか」
 青年の方も具体例で返す。やはり、人魚と接触しているのだろうか。
「そういう事もあるかもしれないな。……何故かと言えば、元は子孫を残すためだったと推測される。繁殖・産卵の時期には安全な海中に戻れという警告だな」
 毒を見分けるために苦味を感じるようになったのと同じだ。なるほど、生物の身体とは機能的にできているものだ。
 赤毛の青年も口を開けたまま興味深そうに聞いている。男は続ける。
「有り体に言えばこうだ。人魚は発情期に肌がものすごく敏感になる」
 青年がふきだした。
 派手に咳こんだ彼は周りで静かに読書していた人々の注目を集めた。咎めるようなその視線に無言で頭を下げて、青年は男を睨みつける。男は気にも留めずに続ける。
「まぁ、領主家に嫁いだ娘は魔女によって人の脚を得ていたというし、彼女以降に尾を脚に変えた人魚の記録はない。魔女はもういないという話もあるし、人魚のままで人と交わることは叶わないだろうな」
 青年は書架に額を打ち付けている。それを見た男がわずかに口の端を上げる。
「どうした」
「なんでもねえよ!」
 小声で吐き捨てた青年は、息を整えると本を棚に戻して書架に背を向ける。男も去られる事は予想していたのだろう、引き留めようともせずに声を掛ける。
「領主邸の研究には今のような図書館にはない情報も多くある。興味があれば来るといい。私が話を通しておこう」
 立ち止まった青年は一度だけ振り返り、しかしそのまま歩いていってしまう。男は息をついて呟く。
「これが愛之介様のためになればいいんだが」
 当代領主様の名だ。――やはり、人魚を求めているのだろうか。
「そこの」
 男は急に私に視線を向けてきた。はい、と裏返りそうな声でなんとか口に出す。
「聞いていただろう。今の事は他言無用だ。……いいな」
 蛇のような目に縫い留められ、何度も首を縦に振る。目を閉じて頷いた男から逃げるように、私は反対側にカートを押した。今聞いてしまった話を反芻する。
 赤毛の青年は、想い人の人魚に触れられるのだろうか。気にならないと言えば嘘になるが、人の色恋に首を突っ込むなど野暮の極みだ。思考の外に追いやって、私は仕事に戻る事にした。

 赤毛の青年が雪の髪と海の瞳の美形と連れ添っているのを見るのは、それからしばらく後の話。