リハビリくあざ

 

えっと、なんだっけ、いち、さん、ご、なな、じゅういち、じゅうさん……うん、たぶん大丈夫!オレは大きく深呼吸して目を開いて、勢いよく振り返った。

「ん」

オレの勢いに顔を上げてこっちを見てきた莇の若葉色にぶつかったオレは撃沈した。ダメだった。いや、うすうすわかってた。こんなに可愛い莇相手に、緊張しないなんて無理に決まってる。
だって、そう、オレはこの好きな子と、一晩ふたりきりなのだ。
――オレたちの間に、「こいびと」という関係が増えてから、はじめて。

すみーさんいないので、お泊まりに来ませんか。左京さんが帰ってくる直前の莇たちの部屋で、そう誘ったのはオレの方だ。莇は一瞬ぽかんとしたあと、じわじわと綺麗な顔を赤く染めた。
かわいい。オレの言葉でそうなってるんだからなおさら。莇の可愛さに夢中になりそうな自分を抑えて、莇の投げ出された手を握る。びくん、肩を跳ねさせて怯んだ隙に、まっすぐ目を見て言い募る。

「オレ、なんにもしないから!……莇がまだ早いって思ってることは、なんもしないから」

手を繋ぐのも、結婚してから。そう言ってた莇が、ハグやほっぺとはいえキスを許してくれるのは、それだけ特別に思ってくれてるってことだ。それはすごくよくわかってるから、それだけで十分。今は。でも、せめて。

「もうちょっと、その、寝るまで一緒にいたくて」

莇は?
ずるい聞き方をしたのは自覚してる。莇は口を開けたまま不自然に動かして、うつむいてしまってから小さく声に出す。

「……離せ」
「え?」
「いいから、まず手、離せ。……そっちの部屋持ってくもん、準備すっから」

赤い耳を覗かせた莇がそう言うから、オレは手を離すどころか抱きしめずにはいられなかったんだ。

――そうして頭突きで引きはがされたのが二時間前の話。最初は本当にいつも通りだった。宿題を片付けたり、学校のことや今度の公演のこと、好きな音楽の話をしたり。……ちょっとだけ、指を触れさせるのを許してもらったり。そうこうしてる間に、莇のいうシンデレラタイムが近付いてきて。そろそろ寝る支度するか、そう言った莇に、オレは急に緊張しだした。もちろん、莇と二人なだけでドキドキしっぱなしだったけど、改めて実感しちゃったんだ。莇が自分の意志でオレの部屋に泊まるんだって。
それで後ろを向いて深呼吸して向き直った莇は身体を倒して柔軟してたから、自然とオレを見上げる上目遣いになっていたから、オレはいつもより大きく撃沈した。オレより背の高い莇に見上げられる機会は少ない。だからこう、余計に、クる。

「……何してんの」

突然床に突っ伏したオレに、柔軟を終えた莇の声が落ちてくる。オレはなんでもない、としぼりだして、落ちていたサンカクを抱きしめた。

「……まーいーけど」

サンカクに顔をうずめて深呼吸したオレが顔を上げると、莇はロフトベッドを見上げていた。莇は礼儀正しいから、どこでどうすればいいのか迷ってるのかもしれない。ここはこの部屋の主(の一人)のオレが導いてあげないと。

「じゃ、莇はすみーさんのベッド使っていいよ。すみーさんはいいって言ってくれてる。シーツは莇が来る前に変えたけど、気になるならこっちに布団出してあるから」

莇に笑いかけてから、自分のベッドに登る。莇の目はどこか潤んでて唇はつやつやしてて、オレはドキドキを誤魔化したくてさっさとベッドに転がって布団をかぶった。しばらくして梯子のきしむ音が聞こえて、莇がベッドで寝ることにしたのがわかる。
あれ、でも、なんか音が近いような。そう思った瞬間、ばぶん、オレのかぶった掛け布団が音を立てた。

「え」

誰が立てた音かなんて、考えるまでもない。布団から顔を出すと、莇はオレに寄り添うみたいに隣に寝転がっていた。

「……へ?」

そんな声しか出せないオレの横、散らばった黒髪の下から莇の緑色がオレを見上げてくる。

「……違ぇの?」

つやつやの唇が紡ぐ、どこか不安げな声色。潤んだ瞳の上目遣い、お風呂上がりにつけてたボディクリームのにおいがわかるくらい近い距離。
だいすきな莇が、オレの隣にいる。

「……違ぇなら、いい。悪かった」

身を起こしながら落とされた言葉に、オレは一気に意識を取り戻した。やばい、どっか飛んでた。じゃない、今はそれどころじゃない!

「ま、待って!」

一気に身体を起こして、莇の背中に額をつける。莇がびくっとしたのがわかったけど、ごめん、今は逃がしてあげられない。

「……莇がいいなら、いて欲しい、です」

背中に押しつけた額に祈りを込める。触れた場所から、莇が大きく息を吐いたのを感じる。

「……ん」

ぐら、揺れる世界に目を開けば、莇はオレのベッドに転がってくれていて。

「……へへ」

一人でかぶっていた掛け布団を莇にも掛ける勢いのまま、莇のお腹に腕を回す。強ばる身体ぜんぶ抱き寄せると、速い心音が伝わってくる。……オレといっしょだ。

「あざみ、だいすき」

抵抗されないのをいいことに、かたちのいい耳元に注ぐ。鼻を、唇を触れさせるたびにほんの少し跳ねるこいびとが愛しい。

「……くもん」

どれくらいそうしてたんだろう、不意に、注意してないと聞こえないくらいの大きさで、莇はオレの名前を口にした。呼ばれたのがうれしくて、なに?と額をぶつけると、莇はオレの手を掴んで持ち上げてくる。

「……え、なになに」

ゆるめられたオレの腕の中、ころん、向きを変えた莇がオレと向かい合う。ジャージの裾を握った莇が、オレの胸に転がり込んでくる。
……う、わ。

「……ははっ、心臓はえー」

甘くかすれたやわらかい声にたまらなくなって、莇の顔の位置までもぐりこむ。衝動のままに両手で包み込んだ頬はすべすべであったかくて、間近でのぞき込んだ新緑はとろけてうるんでいて、そのまままぶたが下ろされて――え?

「――……すぅーー」

聞こえてきたのは、穏やかな寝息。

「――……ええーーーーー……」

よくよく考えれば、何もしないって言って部屋に呼んだのはオレだ。だから、何かしようとしたオレが悪い。それは認める。でも。

「こんなことってある……?」

いいにおいに包まれている。鼓動を全身で感じる。腕の中にだいすきな子の体温がある。どうしたって、眠れそうにない。

「明日起きたら、あざみなんて言うかな……」

覚えててくれるといいな。ささやかに願いながら、抱きしめる腕に力を込めた。