「んじゃ、お疲れさまっす!!」
稽古後、いつもは何もなくても残って質問なりなんなりしていく志太が、今日はそれほど遅くなく稽古場をあとにしようとしていて、僕は珍しさに声を掛けていた。言ってから、まぁ家族の関係だろうな、と思った僕の予想は、明るい声に裏切られる。
「今日はちょっとダチと約束あるんで!」
別にいつも努力しているのは知ってるし、一日や二日遊びに行くのを咎めるつもりもない。それにしても、それなりにハードな稽古のあとでタフなことだ。志太を見送って自分の身支度に戻ろうとしたところでふと思い付いて、着替えに向かう後ろ姿に叫ぶ。
「約束って、いつものMANKAIカンパニーのやつら?」
「そっす!莇と九門!……ってやっべ!もう裏門来てるって!!」
走りだす志太を叱ろうかとも思ったけど、でかい図体は僕が口を開く前に角に消えていってしまう。僕はひとつ息を吐き出して、稽古着のまま志太の「ダチ」がいるだろう裏門――通用口に向かった。
「ほんとにいるし……」
劇団関係者しか使わない通用口の門の外、見知った影がふたつ、そこにいた。裏門を部外者に教えるなというべきか、正面で待ち合せないだけマシなのか。頭の端で考えながら、門のそばまで寄ってちょっと、と声を掛ける。
「あ!晴翔さんだ!ちわっす!」
「うす」
律儀に挨拶をしてくるのに応えて、門に肘をついてそいつらを見る。
「志太今着替えてるから。その前に、ちょっと聞きたいことあって。メイク担当」
「俺?」
訝しげに自分を指さす彼を手招いて、スマホの画面を見せる。
「ここ、信用できんの」
僕が差し出したのは、コスメレビューサイトを開いた画面だ。ここと、ここも、といくつか切り替えた画面を覗き込んだ黒髪は、ああ、と納得したように頷く。
「こことここは全体的に質高い。こっちは、ここ見んなら見なくていい。こっちは基礎化粧品のレビューは少ないけど、ポイントメイクなら役に立つと思う」
「へー、なるほどね。僕もこっちよりはこっちだと思ってたんだよね。参考になる」
「つか何か買うなら話聞くけど。志太まだかかるみたいだし」
連絡が来たらしい自分のスマホを見ながら言われて、少し考える。まぁ、あんまり話す相手でもないし、いいか。
「……人に贈るハンドクリーム探してるんだけど」
この前の、僕の誕生日。実家から色々送られてきたのに返事がてらこっちからも何か送ろうと思った。勿論他にも詰めるつもりだけど、いつも家族のために頑張ってくれているあたたかい手にも、報いたいと思ったから。
「ハンドクリーム!?なら莇詳しいよ、オレも前母ちゃんにあげるの選んでもらったんだ!」
いきなり肩越しに大きい声が反応してきて、さすがにちょっとびっくりする。頭を小突きながらもあんまり驚いていない辺り、日常茶飯事なんだろう。
「急に出てくんな」
「えー、でもオレもなんか役に立てるかもしんないじゃんー」
「今お前俺のことしか言ってねぇじゃん」
前にも思ったけど、なんかこの人懐っこさちょっと志太に似てるな。こいつと今仲良くて、志太とも昔からの付き合いってことは、このメイク担当は犬飼いの素質があるのかもしれない。
大人しくしとけ、と釘をさしてこっちに向き直った緑色が僕を見る。
「すんません、うるせーヤツが」
「ううん、志太で慣れてる」
「わかる。……んで、ハンドクリームなら、」
僕のスマホを覗き込んで話す言葉を聞きながら、ふと放置された犬に視線を向けて少し驚いた。化粧品の話をする連れを見る視線がやわらかかったからだ。甘くやさしい、かわいい、とでも思っていそうな。その目は友人に向けてというより、まるで、
「……聞いてる?」
確認するように言われて、僕は頷いた。挙げられた候補を見て感謝を述べながら、こっそりと二人を眺める。話が終わると見るやすぐに絡んできた紫頭をあしらう様を見る。こっちからの態度もやっぱり甘ったるい。
しばらく前に志太が言っていたことを思い出す。ずっともだもだしてた友達二人が、よーーーーやく落ち着いたって話。あいつも家族のことがあってか仲が深い友人はそんなにいないみたいだし、まぁ、そういうことだろう。
「ふーん……」
二人が同時にスマホの画面を見る。志太だろう。僕の後ろにも、走ってくる足音が遠く聞こえる。
「わ」
「ひゃ」
なんとなく。両手を伸ばして僕より背の高い年下たちの頭に手を乗せた。それこそ犬にするみたいにくしゃっと一撫でして、何が起こったかわからないって顔をしてる二人に笑いかける。
「仲良いのはいいけど、人気商売なんだから気をつけろよ」
それだけ言って踵を返す。何かちょっと声が聞こえた気がしたけど気にしない。
途中、支度を終えた志太とすれ違う。僕と目が合った志太はあれ、と不思議そうにこっちを見下ろす。
「晴翔さん。莇たちと話してたんすか?」
「ちょっとね。騒いでたらお前がなんとかしといて」
「え?何の話――」
言いかけた志太の言葉は門の方からそいつを呼ぶ声にかき消される。友人たちの方へ走っていく足音を背中に聞きながら、僕は稽古場へ足を早める。
色恋に現を抜かして破滅したヤツも知っている。僕自身全く経験がないわけでもないけど、それ以上に芝居に、あの人の理想に向かって打ち込んできた。何を馬鹿なことを、って気持ちはゼロじゃない。それでも。
幼い恋の芽が、いつか枯れない花と咲けばいい。そう思った気持ちも、嘘じゃなかったから。