あざみくんお誕生日おめでとうございます
つきあいたてのくあざ
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ちょっとだけ、時間ちょうだい!
脱衣所から出てきた莇にそう頼み込んだ九門が連れてきたのは、玄関のそばにある死角だった。本当にどこからも見られていないか辺りを見回して確認する。よかった、誰も見てない。ひとつ息をついて、ついてきてくれた彼に向き直る。
「……莇?」
いつも少しだけ見上げる緑色は伏せられて、さらさらの長い髪に隠されて見えない。身を屈めて覗き込もうとしたら顔を背けられたけど、黒髪から見えた耳は、湯上がりだけが原因とも思えない赤さだった。
「……手」
「へ?」
「お前、いつまで、」
そこまで言葉にされて、彼の手を握ったままなことを指摘されていると思い至る。この手のことに弱い恋人は、繋いだままの体温でも真っ赤になってくれているらしい。かわいいなぁ、そう思いながら、繋いでいた手を離そうとする。
「あ……」
いつまで、なんて言ったくせに。離そうとした瞬間に、名残惜しそうな細い声が聞こえて、心臓がぎゅうっと掴まれてしまう。たぶん、莇自身は自分からそんな声がこぼれたことに気付いていない。
ああ、これだから敵わない。九門は心の中だけで零す。こんな莇だから、もっと欲しくなる。もっと大切にしたくなる。
手を離す。離したまま宙に浮いた彼の手を、今度は両手で包み込む。きゅっと力を入れて握りしめれば、長い指が小さく震えた。
「っな、」
「へへ」
握り込んだ手を指で撫でる。スキンケアするなら風呂上がり、そう言っていた彼だから、きっとこの手もお手入れしたてだ。すべすべの手を持ち上げて、そっと頬を寄せる。釣られたみたいに顔を上げた莇に笑いかければ、眉の下がりきった照れ顔のかわいい人は、それまでも熱かった頬をいっそうきれいに染め上げた。
「っ、なんだよ、こんなとこ連れてきて」
「え、ああ、うん」
食べちゃいたい、なんて浮かんだのを誤魔化すみたいに生返事をする。赤い顔のまま睨みつけてくる莇の手から片手を離し、ポケットに手を突っ込む。
「莇に渡したいものがあってさ。ほら、これ」
九門から離れた莇の手に、取り出したものをそっと握らせる。それに目を落とした莇は、怪訝そうに眉を寄せて、それから顔をくしゃっとゆがめてふきだした。
「お前これ替え玉無料券のパクリだろ」
「え、最初にそこ?」
確かにデザインの参考にしたのは行きつけのラーメン屋のクーポンだった。だけど見てほしいのはそこじゃなくて。
「『なんでもする券』って……小学生かよ。プレゼントならさっきももらったし。別にこれ渡すだけならどこでもよかったじゃん」
どうせあとで談話室で顔合わせただろうし。おかしそうに笑う莇はかわいいけど、そうじゃない。談話室じゃ駄目だったのだ。
「だって談話室でも莇の部屋でもみーんな莇を祝いたくて待ち構えてるんだもん。こうでもしなきゃふたりっきりになれないじゃん」
「え、」
そんな、なんでこんなもん渡すだけなのに?少しのうれしいと困惑が混ざった表情をしてるのがわかったけど、そうじゃないのだ。
「さっきのは莇の友達のオレから!こっちのは、莇の恋人のオレから」
「なっ」
「好きな子のわがまま聞いてあげたいじゃん。……って、それじゃオレがプレゼントねだってるみたいになっちゃうか」
でも、嫌じゃなければ、もらって。
結局ねだるみたいになってしまったけど、そう言って見つめたら、莇は少し赤い顔でうつむく。
「それがラーメンの替え玉券かよ……」
そう言われたら確かにそうなのだけれど。でも莇が笑ってくれたからいいのだ。
小さく笑い声が聞こえて数秒、顔を上げた莇は九門からのプレゼントを握った拳を突きつけてくる。
「じゃあ、今、使う」
「え、今!?」
「んだよ、駄目なのかよ」
「いや全然いいんだけど」
こんなところじゃたいしたことはしてあげられないし、風呂上がりなんだから部屋に戻ったほうがいいんじゃないだろうか。連れてきた九門が言えたことではないのだけれど。
壁に背を預けた莇に倣って隣から莇の顔を見る。じゃあ、と切り出した莇に頷く。
「今から俺が言うことなんでも答えろよ。二択な」
「え?」
「一個目。お前今日風呂上がり保湿した?」
「え!?」
なんだ、完全に予想外だ。劇団の美容番長の顔になった莇に詰め寄られ、九門はたじろぎながらも答える。
「し、したよ!化粧水と乳液。寒くなってきたからしっとりめのにってしろってこの前言われたのちゃんと使った」
「よし。唇も荒れやすいからリップクリームも塗れよ。次。こんなことしてっけど、宿題終わってんのか」
「莇たまに左京さんにそっくりだよな……」
「あ゙?」
「えーっと、明日出さなきゃいけないのはない。終わってないのはあるけど、明日で間に合うから大丈夫」
「明日紬さん忙しくないといいな」
「自分でできるってばー……たぶん」
「自信ねえんじゃねーか……次」
それからいくつか、莇はなんてことない質問をしてきた。その途中で、九門は気付いた。たぶん、莇は九門に聞きたいことがある。それでこんなことを始めたのに、どうしてか言い出せないでいる。
「……じゃあ、次」
だから、莇の声の色が変わったのもすぐにわかった。
「……なに?」
「…………俺たち、って、その……」
言い淀む莇に、喜んでしまいそうになるのを必死で抑えた。だって、彼がこんなふうになってしまう話題は決まっている。それを「俺たち」と、自分たちの関係を彼自らそう言おうとしてくれているのだ。
すぐ隣にある手を握る。これだけは許してくれるようになったから、莇への好きがあふれそうになったときに手に触れるのはためらいがなくなってしまった。反射的に九門を見たきれいな瞳を捕まえて、わざと甘くした声でささやく。
「『恋人』、だよ、莇」
緑色をたたえた目元がじんわりと熱を持つ。うん、と声に出して頷いた莇は、握られた手を九門の手ごと持ち上げた。
「こういう、」
「うん」
「…………………………こいびと、っぽいこと。ほかに、してえとか、思わねえの」
「……………………えっ」
きっと、口が開いている。何を言われたか信じられなくて、莇の顔を見ることしかできない。見つめた先の莇の瞳はゆらぎがなくて、たぶん、さっき聞こえたのは間違いじゃない。
「……えっと、それは、どういう」
「二択っつったろ」
「ええ!?」
さっきもそうじゃない質問はあったはずだ。いや、そんなことを言ってる場合じゃなくて。なんて答えればいいのか、鼓動がばくばくになって、ぐるぐるになりそうな頭で考える。
だって、九門は莇が好きなのだ。莇の信念は知っているし、尊いと思うし、守って欲しい。それだって本心だ。莇のことを大切にしたい。だから、急ごうなんてこれっぽっちも思っていなかったのだ。
それでも、はいかいいえかで答えろと言われたら、それは。
「……したい、です」
ぎゅっと、九門の手を握る白い手に力が込められたのがわかった。じゃあ、莇が唇を開く。
「……したい、って、どういうことしてえんだよ」
「なぁ二択じゃなかったの莇」
「うるせえいいから言えっつってんだろ」
眉を寄せた恋人にすごまれて、それでも染まりきった頬を見たら、したいことなんていくらでも浮かんでくる。この状況で求められていると、そう思うのはさすがに自惚れじゃないはずだ。それでも相手は莇だから。頭の中のめくるめくピンク色をぜんぶ言うわけにはいかなくて。
「…………ぎゅーーーって、ハグ、とか、」
やっとのことで、そう口にした。少し濡れた緑色が、いっぱいいっぱいの九門をまっすぐ見つめてくる。
「…………そういうこと、」
しねえの?
――答える前に、だいすきな彼は腕の中に収まっていた。合わさった胸で早鐘を打つ鼓動が重なる。抱きしめた身体は熱くて、少しだけかたい。そうやって莇をどきどきさせているのは、きっと九門自身なのだ。
おずおずと背中に回された手に、ちいさくシャツを握った指に、飛び上がらなかったのが嘘みたいだ。莇が好きで、側にいて、触れたくて、抱きしめたくて。同じ気持ちでいてくれて、それってどれだけ特別なことなんだろう。
「……なぁ、くもん」
九門に抱きしめられたままの莇が小さく言う。なに?と背中を撫でながら応えた声は、裏返っていなかっただろうか。
「そんだけ?」
――本当に、勘弁してほしい。何を試されているんだろう。もっと欲しがってもいいと、許されていると思ってしまう。
「どきどきしすぎて、今はこれがせいいっぱいだぁ……」
しあわせすぎて爆発しちゃいそう。言いながらそっと莇の肩を掴み、ゆっくりと身体を離す。存外あっさりと見せてくれた莇の顔は、九門が想像していた以上に真っ赤だった。
「へへ、莇も真っ赤だ。かわいい」
「かわっ…!?」
「あ、じゃあデートしよ!ふたりで遊んで、買い物行こ。いっぱいあるんだ、恋人の莇と行きたいとこ、したいこと」
頭に浮かんだデートコースは、友達としての莇とも何度も行った場所ばかりだけど、最後に少しだけ、「恋人っぽいこと」ができたら、なんて、今は言えないけど。
ゴッ、肩に衝撃があった。莇は九門の肩に額を伏せてうつむいてしまっていた。
「……日曜」
「え」
「なら、一日空いてる、から」
落とされたデートの承諾のお返事に、そっと背中に手を回す。嫌がられなかったのをいいことにぎゅうっと腕に力を入れたら、痛え!と抵抗されて、力を緩めた。
「あざみー」
「なんだよ」
「だいすき」
「……ん」
すこしだけすり寄ってきてくれるのが、愛しくて仕方ない。今度は怒られないようにと気をつけながら、もう一度強く抱きしめた。