大好きな人と、暦と一緒に過ごす朝が好きだ。俺の方が目が覚めるのが遅かった時は、優しい瞳に見つめられて一日の始まりを迎える事ができる。頬を撫でられて、髪を梳かれる。寝起き特有のいつもより掠れた声でおはよ、と囁かれて名前を呼ばれる。頬を撫でてくれる手にすり寄って甘えて、まだとろんとしてるだろう自覚のある目で見つめれば、仕方ないなって風に息を吐いて、甘い琥珀色が近付いてきて、やわらかいキスを顔中に、焦らした最後に唇にくれる。
俺が起きた時に暦がまだ寝ていたら、寝顔を見るだけでも何時間でも過ごせるけど、触れたりキスしたり名前を呼んだり、わきあがってくる「すき」があふれてしまう事の方が多い。前の晩の事を思い出してもっと大胆な事をしてしまったりもしたっけ。とにかく、そんな暦と一緒の朝が大好きだ。
二人で暮らすと決めて家具を選ぶ時、ベッドはひとつにしたいと言ったのは俺だ。ショップ勤めと学生で生活リズムが違う事もあるだろうと予想できたし、それなら一日のうち眠る時くらい一緒にいるって約束が欲しい。喧嘩して一緒にいたくない事もあるかもしれないけど、それはその時考えればいい。ソファもクッションも布団も持ち込まないとは言ってないしどうにでもなる。それに普段一緒に寝ないとなると、一緒に寝るのは「そういうとき」になるけど、って言った時の暦は可愛かった。そういうわけで、日本人の平均身長以上の男二人には狭いダブルベッドで、俺たちは毎日寄り添って眠っている。
――はず、だった。目を開けたら、いつも真っ先に目に入る赤いふわふわが見えなかった。ぽすん、いつもは暦がいる隣の空間を叩いてみる。ベッドに体温は残っていない。少し先に起きてトーストとコーヒーを用意してくれているのでもなさそうだ。
まただ。こういう事は、今日が初めてじゃない。暦がそうする理由は俺も知っている。だけど。ため息をひとつ枕に落として、俺はベッドを抜け出した。
できるだけ音を立てないようにしながら、ダイニングに出る。いつも一緒にご飯を食べるテーブルに、突っ伏して眠っている暦を見付ける。――やっぱりだ。
東京で一緒に暮らし始めてちょうど一年が経とうとしていた頃。NYの大会で、俺は暦に「夢」の話をした。暦は俺に応えてくれて、帰ってきてからたくさん話をした。俺が貰った暦の「スケートは楽しい」を暦と一緒に広げる事。現実的に噛み砕けば、プロとして暦の興したデッキブランドに所属したい、って事になる。いろんな意味で簡単じゃない事くらい、俺にもわかっていた。
だけど暦はそれを前向きに受け止めてくれた。俺のわがままだけじゃない、それが暦自身ののやりたい事でもあるって言ってくれた。どうしたら実現できるかを考えてくれた。
ひとつ、経営の勉強をすること。元々ドープにいたころから店を持ちたいとは考えてたみたいで、そもそも東京に出てきたのも沖縄ではスケート人口も市場もスケートに関わる仕事も少なく、勉強するにも限りがあると考えたからだ。まずはネットショップを開く事を視野に、今の店勤めでも役に立つような商工会議所系の資格を取るのを目標にしている。
ふたつ、動画を作ること。ネットにしろ実店舗にしろ、ただ開くだけでは客は来ない。何より大切なのはプロモーションだ。スケーターの場合、動画で自分のブランド力を上げるのが一番だ。暦の強みでもある初心者指導やメカニック面を詰め込んだハウツー、デッキ制作の動画は身内からの口コミで再生数を伸ばしつつある。そこから暦自身のパート動画への導線も作ってある。俺も大会とか暦と作った動画でちょっと有名みたいだから、暦のためになるならいくらでも使って欲しい。どの分野でもいい、今から俺たちのファンになってもらえれば、あとで顧客になってもらえる可能性は上がる。今までは見て欲しい、仲間と共有したいだけで録っていた動画も、そういう目的を考えるようになった。
みっつ、お金を貯めること。少しだけど、暦はバイトを増やした。仕事に出る前の、深夜早朝シフトのコンビニとか。俺のスケートショップのバイトもできるだけシフトを増やして貰えるようお願いしている。よっつ、以上を今までのショップや講師、デッキデザインの勉強の頻度を減らさずにこなすこと。つまり、単純に今までの生活より負担が増えるって事だ。
ダイニングテーブルを見るに、今やってたのは資格の勉強らしい。ノートや参考書がちらばっている。画面が消えたタブレットに触れると、予想問題集のサイトが開かれている。並んで開いているカレンダーの赤丸は来週だ。試験まではすぐだ。
暦はスケートも昔から一人で限界まで自分を追い込むみたいに練習してた。粘り強く頑張れる暦を尊敬するし、かっこいいって思う。だけど、暦の頑張り方は時々心配になる。コンビニのバイトだって、初めはもっと無茶な入れ方をしようとしてた。一度本気で体調を崩しかけてからはおとなしくなったけど、あれをこなせてしまっていたら今頃どうしていたんだろう。
眠る暦の横、ダイニングテーブルに頭を預ける。そっと、やわらかい赤毛を撫でる。ずっとこうして寝かせておいてあげたいけど、テーブルじゃそんなに深くも眠れていないはずだ。たぶん、俺がこうやって撫でている事で少しずつ覚醒している。――少しずつ、まぶたが上がる。俺の好きな琥珀色が現れる。
「おはよ、暦」
「…………ランガ……?」
ふにゃふにゃの声。寝ぼけているんだろう、しばらくぼーっと俺を見つめていた暦は、突然はっとしたように目を見開いてから、机に額をつけて下を向いた。あーーーーー、と唸るみたいな声が聞こえる。自分を情けない、って思ってる時の声だ。
「昨日も一緒に寝たよね?隣でおやすみって言ったのは俺の暦だよね?俺が寝入ってから抜け出して、五時くらいまで勉強してからベッドに来るつもりだったんだろ」
「……はい」
それはもうほとんど徹夜だ。結果、五時までも起きていられなくてテーブルで寝落ちてしまうんだから世話ない。しかも、これが初めてじゃない。
暦は俺を頑固って言うけど、暦だって負けてないと思う。無茶するなって言っても簡単に聞く暦じゃなんだ。
「ねぇ暦」
頬に触れて、自分の膝を見つめたままの暦の顔を上げさせる。頬全体を包んだまま、琥珀を見つめる。
「暦が頑張ってるの、俺知ってるよ。すごいかっこいいって思う。だけど、俺に隠れて頑張るのやめて。抜け出してこっそり戻るなんて事しないで」
ひとりぼっちにならないで。
いなくなってた体温に気付けてなかった俺自身にもちょっと腹が立ってる。こんなに暦の事好きなのに。自分が情けない。
「俺のわがままでもあるんだから、俺にも一緒に背負わせてよ」
額を合わせる。暦の瞳がゆるく伏せられる。
「……お前は俺の作るお前の動画で有名になってくれれば十分だよ。そうすればあのランガの使ってるブランドになれるんだから」
「……言いたい事はわかるけど、暦が無茶するのは別の話だよ」
このやりとりだって初めてじゃないのに。
「あとはさ」
なのに、身体を起こした暦が俺を抱きしめるから。
「今みたいにさ、俺が無茶しそうな時はちゃんと叱って。それからこうさせて。お前がいるってだけで、俺もっと頑張れるから」
「……頑張りすぎるなって言ってるんだけど」
暦の背中に手を回す。抱きしめる。あたたかい体温。鼓動。暦が生きている証。
「ねぇ暦、スケート楽しい?」
「当たり前だろ、お前がいるんだから」
お前との「スケートは楽しい」のためだから、無茶だってできるんだから。
そう言う瞳が、声が、本当に俺を好きだって全部で伝えてくるから。
――本当に、暦はずるい。
「でも夏休みの短期バイトは入れるから。それくらいはするから。絶対」
「わかったよ、お前がそう考えてくれてんの俺も嬉しいし」
「……じゃあなんで俺には無茶させてくれないの」
例えば、俺だってもっとバイトを増やしたっていいのだ。学生の方が時間の融通は効くし、その方がいいはずなのに。暦のためならなんだってできるのに。暦はなんだか唸っていたけど、観念したように吐き出した。
「……お前ももっと忙しくなったら、もっと一緒にいる時間減るだろ」
暦はショップとアトリエとバイトを行き来して、部屋では勉強時間も取っている。俺も大学とバイトがあるし、学年が上がって課題も少し増えてきた。一緒にいられるのは、帰宅後、夜が更けてからの時間だけ、という日も増えている。
「一緒にいる時間減らしたくないって事?」
「……当たり前だろ。ただでさえあんま一緒にスケートすらできてねえのに、一緒に飯食うとか生活する時間もこのまま減ってって、たまに一緒にいられるのが寝るときだけになっちまったら」
そうしたら、何を選んでしまうかは目に見えている。
「一緒にいられるときにそればっかにもなりたくない」
お前の事大切にできないのも嫌だ。……目を逸らした暦がそんな事を言うから。
「……暦のすけべ」
「おまえな、」
小言は呼吸ごと唇でふさいだ。
「知名度の話だけど、俺たち海外ブランドの人とかプロの間でちょっと有名みたいだよ」
「は?なんで?」
「NYの大会の時、俺色々声掛けられたの断ったろ。その時話してるんだ、暦の事」
「へ」
「雪降ってきたとき連れ出したのもみんな見てたし。だから、あの大会のレポートしてたアメリカスケートメディアのひとつでは俺の事書かれてたみたいなんだ。スケートだけじゃない、恋人のためにスカウトを蹴ったクレイジーなロマンチストって」
「……ふぇ」
「上手く話せば、ちょっとくらい資金援助お願いできるかも」
そういう馬鹿なヤツ好きだろ、スケーターって?