――月が、輝いている。
窓から顔を出して位置を確認しながらハンドルを回す。縁石にぶつかる感触に動きを止め、ギアをパーキングに入れてサイドブレーキをかける。キーを回してエンジンを切ったところで、俺はハンドルに突っ伏した。
二人暮らしのマンション、沖縄にいる時の拠点はいつもここだ。運転が俺かランガかは日によって違っても、普段なら車を入れただけで突っ伏すような事にはならない。要は、それほどまでに今日が日常とかけ離れてたって事で。
「はぁーーーーーー……」
長く息をついて、少しだけ顔を上げる。腕時計は十一時五十分。なんとか今日のうちに帰ってこられたみたいだ。
顔を上げて、もう一つ気付く事がある。いや、突っ伏したままでも感じてたけど、改めて強く感じる。助手席からの視線だ。
「……お前、見すぎ」
ハンドルに頭を預けたまま、顔を助手席に向ける。とろけるみたいな甘い顔で、まっすぐに俺を見るランガがいる。――くそっ、かわいいな。
俺の声にランガは楽しそうにくしゃっと顔をゆがめて、こぼれるみたいに声にした。
「だって俺、今すっごくしあわせなんだ」
朝、東京の部屋で暦の気配を感じながら起きて、暦が作ったものを欲しがってくれる人のために事務仕事して。何度も一緒に滑った街を、一緒に通った空港への道を眺めて。沖縄に来て、暦が育った俺も大好きになった第二の故郷の空気を感じて、暦のために暦が好きな料理を作って、暦がこれからスケートを好きになる子たちに教えるのを見て、二人の部屋で一緒に食事して。ずっと暦が目標にしてた暦のデッキが何人もの人に求められるのを暦と一緒に目の当たりにできて。
俺が暦に貰ったスケートの全部が、もっとたくさんの人をわくわくさせてるって、何度も感じられて、すごく嬉しかった。それになにより、
「ロマンチストなわりにリアリストの暦が、やっと俺の全部が欲しいって言ってくれたんだ」
今まで生きてきた中で一番うれしい。
そう言うランガが、左手をかざして薬指を見つめるランガが、本当にめちゃくちゃに幸せそうに笑うから。
「……あんま言わないでくれ、かっこつかなかったから」
あの後、形だけでも報告をと、ランガの母さんと俺の実家を回った。そういう仲な事は言ってあったし、ランガの母さんはすごく喜んでくれて、祝ってくれた。ふたりでしあわせになってね、と祈りをくれた。うちの実家でも、月日と、口達者な歳になった七日と千日に、遅いだのシチュエーションがなってないだの散々色々言われて……最終的には妙に豪勢な食事を出されて、それから。
「暦の家族、あったかくて、暦をつくってくれたって感じられて、俺大好きだよ」
左手を見ていたランガは、いつのまにかまた俺を見つめている。なんとなく顔を見返せなくて、俺はハンドルに額を伏せる。
「……知ってる。俺も、お前の母さん好きだぜ」
「知ってる」
再び落ちる明るい笑い声。
「お母さんの前で泣いちゃっても、暦がかっこいいのは変わらないのに」
「だーーーーーわざわざ言うなって!」
ハンドルに頭を打ち付ける俺の横で、ランガは声を上げて笑う。ああもう。
「お前、俺からかうの楽しんでるだろ」
「うん」
悪びれない答え。いつからこんなに可愛くなくなってしまったのか。
「俺に振り回される暦、かわいい。好きだ」
突っ伏したままの背中に重みがかかる。助手席から身体を倒してるのが見える。多分、ランガの頭が乗っている。
「どんな暦もかっこいいしかわいいから好き。……余裕ないところとか」
身体ごと覆いかぶさってくる体温、項に落とされる感触。――前言撤回、可愛くなくなったなんて嘘だ。
身体を起こす。俺に跳ねのけられたランガを支えて、肩を掴んで抱き寄せる。後頭部に滑らせた手で引き寄せる。マリンブルーが間近に迫る。それから。
「――人生でいちばんしあわせだって思ってんの、お前だけじゃないからな」
荒くなった息を吐きだしながら、少し掠れた声を耳元に落とす。俺の髪を掴んでいた指が離れ、頭ごと引き寄せながら囁かれる。
「うん。でも、もっとしあわせにして――しあわせになってくれるだろ」
これから、一生、一緒に。
答えの代わりに、甘い吐息ごと飲み込んだ。
——
やわらかい赤色に指を絡めて引き寄せる。触れるように重なる感触よりも、もっと確かなものが欲しくてくちびるを開く。誘いに応えてくれた舌は歯の裏まで触れてくれる。くちゅり、俺からも触れ合う面積を増やすように動けば、水音を立てて吸い上げてくれる。もっともっと、首に腕を回してからだを押し付ける。薄く目を開いた先には、欲に燃えるいつもより深い色の琥珀色。――ぞくぞくする。
くちづけがほどかれる。顎がほんのすこしひんやりしているのを感じて、飲み切れなかったふたりぶんの唾液が流れていたことに気付く。でも、それよりも。もっと、今のが欲しい。奥の奥まで食らいつくされたい。
「――……こーら」
もう一度重ねようとしたくちびるは、届く前に彼自身のてのひらに遮られた。いやだ、足りない。どうしてそんないじわるするんだ。ふさがれたままあたたかいてのひらを舐めあげる。汗の味を堪能する。やめろって、と額をはじかれる。いたい。
「おまえ、ここどこだかわかってんのかよ」
そんなことどうでもいい。車の中だからってなんだよ。誰に見られるわけじゃない。もっと顎の裏まで舐められたい。だから今すぐ、もっと。
「だぁめだ、俺が早くお前んナカ行きてぇの」
だから早く、部屋戻んぞ。……後半まで意識することができなかった。――低い声で耳元に落とされた直接的な言葉に、からだの奥がふるえすぎて。
それならなおさら早く奥まで欲しい。どこでだってかまうもんか、前にもここでしたことあるだろ。運転席のシートに押し付けられたまま、きつくなった主張を押し付ける。同じくらいかもっと張り詰めた熱い部分。ほら、やめる理由なんてないだろ。準備がって言うなら俺が持ってるから、左ポケット。おまえと一緒の時はいつも持ってるの知ってるだろ。
「おまえ、それで親に会ってたの」
苦笑いしながらそう言われたって、一緒にいる時にいつもそうだってだけだ。今日が特別な日だからどうってわけじゃない。そんなこといいから。
「やぁだ」
膝裏と背中を支えられて、蹴り明けた運転席のドアから抱えられたまま外に出される。繰り返された深いキスと欲しがられた言葉にすっかり腰砕けになっていたから、不安定な姿勢に落ちそうに、はならない。お姫様抱っこってやつだ。こんなふうに軽々抱えられるようになったのはいつからだっただろう。力の入らない腕でなんとか首にしがみついて、首元に顔をうずめる。においを吸い込む。そのまま歩き出されて、揺れるたびに押し込められた脚の間が痛む。おなかの奥がきゅうきゅうさみしくうずく。建物を上がって、俺を抱えたまま器用に玄関を入ってもまだ放してくれない。なあ、なんで。ベッドまでだって待てない、車でだってよかったんだ、玄関でもソファでもいいから。早く。
「だからだぁめだって、俺がお前の奥直で感じてぇの」
――きゅん、と音を立てたのは、心臓だったのか、おなかの奥だったのか。どさり、やっと下ろされたベッドで見上げた大好きなひとの目は、熱くて、どろどろで、焼き尽くされそうで。今の言葉が嘘じゃないって、雄弁すぎるほどに語っていて。
「――おまえも、同じだと思ってたんだけど」
違ぇの?
顔の横に肘を付かれ、鼻が触れる距離で囁かれて、回らない頭で何度もうなずく。そんなの、俺も同じに決まってる。いつだって直接その熱を感じたい。それでしか届かない一番やわらかい場所にキスして欲しい。
いつも俺を大切にって、俺がどんなにねだっても薄い膜で隔ててしかくれないやさしい彼の、快楽への、征服への、俺への、欲を直接に浴びて、奥深くに熱い飛沫を味わわせられるのを想像して、それだけでもうどうにかなってしまいそうで。
ベッドの匂い、覆いかぶさってくる体温。いつの間にか開かれて抱えられた脚の間に陣取られて、服ははだけられてふたりぶんの膨張がふれていて一緒に握られていて。鼓膜に直接そそがれる吐息と俺の名前を呼ぶかすれた声。
「――……」
――世界が、弾けた。