新卒社畜っぽい九門くんがいる莇くん視点の九莇未満
——————-
玄関に落ちている男の脇に腕を突っ込んで引っ張り上げる。肩にかかる重みと体温、口から漏れた少しかすれた声と湿度を帯びた熱い吐息に心臓が跳ねて、いまだにそんな反応をする自分に呆れた。息を吐いて落ち着けて、片腕でそいつを背負う。
ここの間取りは知らないが、ワンルームなんてどこも大差ないだろう。脱衣所だろうドアとキッチンを通り過ぎ、正面のドアを空いた方の腕で開ける。壁を手探りに見付けたスイッチで明かりを付け、斜め前に見えたベッドに自分ごと倒れこんだ。重い腕から抜け出してそのまま転がる。うつ伏せに倒れた顔をこっちに向かせて、黙ってれば鋭く男らしい、あの頃より丸さが減った頬を軽く叩いた。
「……おい、わかるか?」
ぺちぺち。何度かずつ叩いてしばらく、ゆっくりと瞼が開かれる。鈍く姿を現した金色は一度瞬いて、俺を見付けてきらりと輝く。
「あれー?あざみー?なんでいんのー?」
「……よし、意識ははっきりしてんな。起きれんなら起きとけ」
添えたままだった指で頬を撫でてから身体を起こす。肩に掛けたままだったバッグからペットボトルを取り出し、蓋を緩めてやってからボトルを向ける。それを受け取って俺の隣に座った九門は一気に半分ほどの水を煽った。
「……っはー、目ぇ覚めたー……ありがと莇……って、そうだ、莇なんでここに?すげー助かったけど」
両手で持ったペットボトルを膝に挟んで、背中を丸めた九門が俺を見上げてくる。見慣れないワイシャツネクタイ姿をちらりと見ながら答える。
「十座さんが気にしてたから。また無理してんじゃねぇかって」
そもそも、今日の十座さんの客演の公演には、九門と一緒に行くはずだった。だけど、土曜だというのに急に仕事が入ったとかで泣きそうに電話してきたのが今朝のこと。そういうこともある会社だってことはこの三カ月で思い知ったから、十座さんも他のみんなも、就職を機に寮を出た九門のことを心配していた。
「ソワレの後楽屋に会いに行ったら、夕方から既読付かないのが心配だっつってた。終わってから色々とかあるだろうに飛び出してきそうだったから、俺が様子見に行くって鍵借りた。ら、玄関でつぶれてた。びびった」
「兄ちゃん……ってもう九時になるじゃん!やっべ、そうだ兄ちゃん返信してない!」
尻ポケットから取り出したスマホを見た九門が悲鳴を上げる。大慌てで何か打ちこんで、次いで鳴った振動に息を吐きだす。連絡は取れたらしい。
「よかったぁ~……ほんとありがと莇」
「お疲れ。無理しすぎんなよ。……営業飲み?」
背負ったときに感じた息の匂いを思い出して問いかける。そー、と答えた九門は伸びをしながら続ける。
「たまにだけど、今日はそう。お客さんと話すの楽しいから嫌じゃないけどね。それより資料作りとか会社でやる仕事が大変」
いっつも夜までかかっちゃうんだよなー。九門がぼやく。近々本格的に稽古に入る夏組公演に合わせて融通利かせてもらうために、今できる仕事詰め込んでるってこの前言ってたっけ。
「そんな帰り遅くなって、晩飯ちゃんと食えてんのかよ」
「食ってるよー」
それでカロリー高いもんだったらシメねえと。とりあえず確かめようと、隣に座る男の顎に手を掛ける。顔を近付け、じっと眺める。
「……あの、あざ、」
「やっぱ荒れてんな……」
忙しいらしい今は多少仕方なくても、夏組公演までにはマシになってて貰わないと困る。それには少しでも早く始めた方がいい。
だからだ。そういう理由なんだ。
「コンビニ飯よりいいもん食わしてやる。明日の朝、台所貸せよ」
顔を背けて立ち上がる。後ろでへ!?とでかい声が聞こえる。
「お前、もうちょい声……」
「莇、朝飯作ってくれんの!?てか、え、泊まってくの!?」
「……ビジホかネカフェ行ってもいーけど」
「いいよ!泊まって!久しぶりだし莇と一緒にいたい!」
「はいはい」
背中を向けたまま笑って言う。顔を見られないようにしていてよかった。
公演に向けた肌質改善のために食事を整えてやる。これだって本心だ、間違いない。だけど、そうしたいって、そう思われたいって打算も確かにあった。それが満たされた今、絶対に顔が緩んでいる。
「んじゃ、今あるもん知りてーから冷蔵庫見ていいか。っつっても、外食多いんじゃ何も入ってねーか」
「いいよ!でも莇、さっきもコンビニ飯って言ってたけど、昼は食堂の定食だし、夕飯は家で作ってることも多いよ」
「へぇ?」
玄関に向かうドアを開けて、シンクの横に立つ冷蔵庫を開ける。トマト、きゅうり、カットレタス。めんつゆ、ポン酢、ドレッシング。……これで食べてるっつーなら、「作った」には異議を唱えたいところだけど。
「野菜だけ?主食とかタンパク質は」
「冷凍庫!あとシンクの下!」
ベッドの方から聞こえる声に従って収納を開ける。ツナ缶、サバ缶、コンビーフ。袋麺にカップ麺。あとはサプリやプロテイン。昼が定食なら極端に偏ってるわけでもないだろうし、まぁ、摂ってなくはねぇのか。
「あと冷凍庫……冷食のから揚げかなんかか、白飯冷凍でもしてんのか……」
予想は外れた。いや、確かにから揚げや白飯は入っていた。だけど、冷蔵庫の上の扉、広くもない冷凍庫の半分以上を占めていたのは。
「冷凍うどん……」
意外だった。別に、単に炭水化物を摂るだけなら米でもパンでも麺でもなんでもいい。ただ、うどんに偏ってストックされてるとは思わなかった。
「昔さぁ、作ってくれたじゃん」
耳の近くで聞こえた声に驚いて振り返る。九門は俺の肩越しに冷凍庫を覗いていて、俺と九門の距離は俺が振り返ったことで鼻が付きそうなくらい近くなった。慌てて前を向き直して冷凍庫を締める。九門はそのままの距離で続ける。
「オレが夜ラーメン食べようとしてたら、肌荒れする、って言ってさ。サラダうどん」
「……え」
言われてみれば、そんな記憶はある。寮に入って二年目ごろだっただろうか、確か会社帰りの千景さんやバー帰りのガイさんとも話したから、それなりに遅い時間だった。
「初めて帰り遅くなったとき、本当に何もしたくなくてさ。でもなんか食べなきゃって冷蔵庫見てたら、母ちゃんが引越しの荷物に入れてくれてたうどんがあってさ。そしたら莇のサラダうどん思い出して、残ってたキャベツと青じそで食べた。なんか、莇に会いたくなった」
冷凍庫の扉に額を付ける。振り返れない。こいつの声、こんなんだったっけ?
「オレが作れるのはあの時のレシピとは違うけどさ。茹でてるときとか莇を思い出すから、疲れてても作るの苦じゃないんだ」
資料作りはいつも夜までかかるって言ってた。夕飯は家で作ってることも多いって言ってた。こいつは今、疲れてても苦じゃないのはなんでだって言った?
肩が重くなる。視線だけ後ろに向けると、すぐ近くに見える薄紫。九門の頭が俺の肩に乗ってるとわかって、ただでさえ速くなってた鼓動が暴れ始める。
「……あざみ、」
「っ……くも、」
「すーー……」
「………………………………は?」
勢いをつけて振り返る。俺の肩から落とされた頭はそのまま身体ごと床に倒れて、落ちる前に頭を支える。意識があればこうはならない。こいつ。
「寝てやがる……」
疲れてるのも、飲んでるのも知っていた。そもそも俺が来た時点でつぶれてた。いつ落ちたって不思議じゃなかったんだ。
でも、それにしたって。
「…………くっそ」
悔しい。俺ばっかこんなドキドキさせやがって。あんなこと言って違うなんて言わせねぇ、でも同じ目に合わせなきゃ気が済まねぇ。
さすがにこれだけ疲労困憊なのを起こすつもりはない。無防備な寝顔を晒してるこいつをもう一回ベッドに投げ込んだら、そこのコンビニに朝飯の材料を買いに行く。仕込みだけ済ませて寝支度したら、ベッドの隣に潜り込んでやる。泊まるってことになったときは床で寝るつもりだったけど、もう俺がしたいようにしたっていいだろ。せいぜい起きたときに焦りやがれ。
それで、腕を振るった朝飯を食わせてやって、疲れてるのを甘やかしてやる。態度次第ではまた作りに来てやってもいい。時間をかけてもいい、だけど、絶対言ってはやらねぇし、簡単に頷いてもやらねぇ。
シンクの前に転がる九門を抱き起こして、正座した脚の上に頭を乗せる。少し荒れた頬を片手で包んで、目元を親指で撫でる。かすかに動いた唇は、俺の名前の形をしていて。
「……ちくしょう………………」
起きたときに焦らせてやりたい。だけどそれ以前に、一晩同じベッドにいて、俺の方が無事でいられるだろうか。
「九門のばーか……」
かさついた唇に親指を滑らせながら、言わせたい言葉を自分の口の中にだけ落とす。
触れた親指が薄く開いた唇に食まれて、上がりそうになった悲鳴をすんでのところで抑え込んだ。