【2/12フルブル新刊】もっと。九莇

「……くもん」

 そんなふうに名前を呼ぶから、オレは、

***

 オレの頬の下でつやつやした黒が揺れて、ふわふわした花のにおいがする。肩から腕に触れた身体は呼吸と一緒に沈んできて、そのたびにオレは身体を固くしてしまう。視界に入る景色のせいだと思って目を閉じたら目以外の感覚が鋭くなって逆効果で、また目を開ける、と、やっぱり目の前にあるのは現実で。
 全然イヤなわけじゃないんだけど、なんかもう、ダメになりそうなんだよこのままじゃ!誰か助けて!!
 ――なんて祈りが通じたのかわからないけど、ドアが開かれる気配がしてオレは顔を上げた。神様仏様!

「左京さん、さっきの後半の場面だけど――」

 台本を見ながらドアに手を掛けていた万里が視線を上げて、オレと目が合った。途切れた言葉のまま口を開けた万里は何秒か固まったあとで目を伏せて、オレが何か言う前にドアを閉めようとする。

「……邪魔したな」
「わーーーー!!待って!助けて!!」

 精一杯の小声で叫びながら、自由な方の手を伸ばす。万里は心底めんどくさそうな顔で息を吐き出して、でもオレの方を向いてくれた。
 夜九時前、一〇六号室。オレの左肩には、眠ってしまった莇の頭が乗っかっていた。

「なんでこんなことになってんだよ……」

 万里の手がそっと莇の頭と肩に触れる。オレの肩に寄りかかっていた莇の体重が離れて、オレは大きく深呼吸した。

「さっき夏組でミーティングしててさ、左京さんに相談したいことができたからオレが伝言にきたんだけど、いなかったから。莇が待ってれば、って言ってくれたから話してたら、いつの間にか」

 隣にいた莇が寝入っちゃって、起こすかもしれないから動けないし、スマホもテーブルの上に投げちゃってたから誰かにLIMEもできないし、なんかすぐ近くでいい匂いするし、とにかく助けを求めてたんだ。

「っつってもなんでお前……ああ、そういやさっき天馬出てったな」

 仕事だって、とオレは頷く。なる、と零した万里は、眠ったままの莇の背中と膝の裏を支える。ちょっと待って。

———-

「あざみ」

 名前を呼んで手を伸ばしてくるあいつの笑顔。歯を見せた笑い方は同じなのに、視線の温度が、なぜか、

***

「九門が頭撫でてくる?」

 汁を少し飲んで丼を置いて言う志太に、俺は小さく頷いた。
 特に予定もなく、左京のいない部屋で動画や雑誌、SNSをなんとなしに見てた休日の午後。「今ヒマ?」なんていつもみたいに急にLIMEを飛ばしてきた志太にスタンプを返して、いつものラーメン屋に二人で来たのがちょっと前。さすがに付き合いが長いからか、志太は俺の様子が変なことにすぐに気付いて、注文を終えるなり突っ込んできた。なんとなく言い淀むうちにラーメンはさっさと運ばれてきて、俺がそれを言えたのは二人ともほぼ食べ終えるころだった。

「最近急に?なんで?それと、なんで莇がおかしくなんの」

 餃子をつつく志太の目は本当に純粋な疑問を持っている。だけど。

「それがわかんねーから落ち着かねーんだっての」

 なんで九門がそんなことしてくるのか。多分、ねぎらいの意味は込められているんだろう。最初に意識したのは、先週までやってた秋組公演の初日だった。秋組らしくアクション満載のその公演は演技が入ってからの脚本変更とかもあって、衣装やメイクが完全に決まるまでもちょっと時間がかかって。だから俺も、ちょっと疲れてた時期もあった。それを知ってたんだろうか、いつもは初日の楽屋に来るなり兄貴に抱き着いてたあいつは、今回は真っ先に俺のところに飛んできて、。「莇、頑張ったね」と、頭を撫でてきた。
 それから公演終わりに会うたびに、千秋楽の日には特にくしゃくしゃにされた。だから、「公演を頑張った」からだと思って撫でられてやってたけど、公演期間が終わってからも何かにつけて「えらい」とか言って撫でてくるし、そうじゃないときにも変な視線を感じることがあるから、もしかしたら撫でたいんじゃないかと思う。だけど、そうなってくると。

「本当に意味わかんねーし、そうじゃなくて、あいつに年下扱いされてるとかならムカつくし」

 わっかんねえ。繰り返して言って、肘を立てて組んだ手に額を預ける。志太のあー、と言う声が聞こえてしばらく、さらり、髪に触れる感触がする。誰がやってるかなんて、考えるまでもない。

「……何」
「莇、猫っぽいところあるもんなー。そういう風になら撫でたくなることもあるかも」
「はぁ?なら、志太とか九門の方が犬っぽいだろ」
「うーん、九門は多分そうじゃないんだけどなー」

 志太は苦笑して、俺の頭を撫でる。

「九門って十座さんにすげー懐いてんじゃん。頭撫でられて嬉しそうにしてるし。単に自分がされて嬉しいこと、仲いい莇にしてやりたいだけなんじゃね?少なくとも、九門が莇を年下扱いしてるようには俺には見えないよ」

 今俺からはそれしか言えないかなー。よくわからないことを言いながら、髪に触れていた志太の手が離れていく。

「……で?」

 空中で不自然なポーズを取った自分の手を見ながら志太が言う。

「……『で?』って?」
「俺が今撫でてたのはどうだった?」
「え……あー、撫でられてんなーとしか」
「そこまでかー」

 ため息をつきながら脱力する。なんか今日の志太変だな。うなだれる幼馴染を見ながら、お冷のグラスに口を付けた。