馳河ランガです。

 作業場に運ぶ段ボールの上からバインダーが落ちる。箱を置いたテーブルからすら落ちたそれは、小さい音を立てて綴じた紙を吐き出した。
「暦、何か落ちたよ」
 散らばった紙を踏んでしまっては危ない。運んでいた食器をシンクの横に置いてから、ランガはバインダーの側に屈みこんだ。
 それはスケートの設計図だった。自分に作ってくれたもの、暦自身のもの、妹たちのもの。ほかにもたくさん。何枚も連なるそれは、暦の手から作り出されたと覚えているものばかりだ。ランガはものを作り出す暦の手がとても好きだった。
 スケートのことになるとこういう細かさも見せるのに、普段の自分のことには無頓着なんだもんな。補習の常連だった姿を思い出して笑みがこぼれる。次に拾い上げたデザイン画も、なんとなく覚えがあるものだった。
「それ、お前がガムテで乗ってたやつだ」
 立ったまま覗き込んできた暦に言われて思い至る。ランガが使っていた時にはかなりボロボロだったけれど、あれも元はデザインされたものだったらしい。
「そっか。懐かしいな」
 全部、あそこから始まった。初めてクレイジーロックで滑ったときに感じたドキドキ。毎日遅くまで暦と二人で練習して、転んで、練習して。あの日々がなければ今の自分はないと、胸を張って言える。
「おまえが転校してきた日、覚えてるよ」
 自己紹介でも名前しか言わねえの。先生に訊かれてやっとカナダから~って言って。テーブルの脚元、隣に座ってからかうように言う暦を、ランガは横目でにらみつける。
「そんなちゃんと聞いてなかっただろ。最初アメリカだと思ってたくせに」
 そうだっけ?と惚ける顔すらあのころと変わらない。
「それじゃあ改めて」
 自己紹介をお願いします。暦はまたよくわからない遊びを始めたいらしい。インタビュアーのつもりか、マイクみたいに手を構えている。
「転校の挨拶の話じゃないの」
「細けーことはいーんだよ」 
 急かす暦に仕方ないなと笑う。まぁ、考えてることはなんとなくわかるけれど。
「馳河ランガです」
「そんだけ?」
「カナダから来ました」
「あとは?」
「暦が好きです」
 ゴッ、と鈍い音。暦はテーブルの脚に額を打ち付けていた。
「……おまえさぁ、」
「何。言わせたかったんだろ」
「否定はしねーけどさ……」
 そう素直に言う暦がかわいい。けど、そんなにかわいい態度を――ランガのことが好きだって表情を見せるなら、テーブルなんて抱えてないでこっちを見てほしい。名前を呼びながら服の裾を引く。ねぇ、ほら。
「あーーーーもう!!!!」
 叫びながら勢いよく振り返った暦に抱きしめられる。首筋に頬を刷り寄せる。少し身体を離されたあと、近付いてくる茜色に目を閉じて応える。
「……ッ」
「ランガ、」
 離れるほんのわずかの間、少しかすれた声で名前を呼ばれるのが好きだ。耳に流れ込んでくる切羽詰まったみたいな色は、たちまちランガを駄目にしてしまう。
 たっぷりランガを味わった暦は、勢い冷めやらないらしい、今度は首筋に吸い付いてくる。ランガは暦の頭を抱えていた手で髪を引っ張る。
「なんだよ、駄目か?」
 というのはいつものランガの常套手段だ。いつも欲しがってしまうのはランガの方で、だけど骨まで食い尽くされそうな、今みたいな、ギラギラした瞳の暦もランガは大好きで。だから駄目じゃない。駄目なんかじゃない。けど。
「だめじゃない、けど、今日片付けないと明日ベッド入らない」
 今日初めて荷物を運びこんだ二人だけの城は、だけど今は段ボールだらけだ。暦の実家に泊まった時を思い出す布団の感触も悪くない。でも、一緒に選んだ大きめのベッドにも、きっと工具を扱うからだけじゃない防音意識の部屋にも、ちょっと、かなり、期待していたのだけれど。
「…………ッッッ」
 暦はわなわなと震えながらランガの肩に顔をうずめている。抱きしめた腕で暦の背中を撫でる。
「暦?」
「じゃあ、」
 もうちょっとだけ。その声と同時に、後頭部をやさしく支えられる。
 まだ笠のない蛍光灯を暦ごしに見上げながら、首に腕を回して引き寄せた。