淡い色をした頭がカウンター席で揺れている。
時折かくん、と船を漕いでいたそいつは、ついに指通りの良さそうな髪をカウンターに流れさせた。突っ伏したのだ。グラスを磨いていた手を止め、席の方を覗き込む。
「寝ちまったか?」
カウンターごしに手を伸ばし、頭のすぐ横に置かれたシャンパングラスをずらしてやる。少しだけ残った液体が揺れる。
「……ん、」
俺の動きに気付いたのだろう、テーブルに額を預けていた顔が上がる。酒に赤く染まった顔。その唇からは聞きなれた二文字をつぶやきながら、海の色をした瞳を明るく瞬かせる。俺の方を見る。
「飲みすぎたか?」
「…………………………ジョー」
雪の異名を持つそいつは、俺を認識した瞬間に眉を寄せやがった。
この年下の友人たちと廃鉱山で知り合ってから数年が経つ。そのころ高校生だった二人もグラスを交わせる歳になり、ごくたまにこの店を訪れていた。
今日のこいつは、ディナーに閉店まで貸し切ってくださったお客様が予定より早くお帰りになり、早めに閉めるかどうかと考えながら食器を片付けていたところに、ふらりと一人で現れた。珍しいな、と、暗に赤毛は一緒じゃないのかと問うと、途端に綺麗な顔をぶすくれさせて酒を要求してきた。つまり、そういうことらしく。
いつになく速いペースでグラスを乾かすのを繰り返したと思えば、あっという間に寝ぼけ始めたというわけだ。
「ほら、完全に寝落ちる前に酔い覚ましとけよ」
水のグラスを置いてやる。入れ替わりに下げたシャンパングラスを流しに置くのと同時に、ポケットに手を突っ込こんで指を滑らせる。多分これでいいだろう。視線を上げ、カウンターを伺う。
のろい動作で水に口を付けたランガのまだ赤い顔は無表情だったが、しばらくして俺を見た時以上に眉根を寄せた。色々思い出してきたらしい。俺はカウンターに肘を付く。聞くだけならしてやってもいい。飲み干したグラスを置くと、ランガは息を吐きだして口を開いた。
「仕方ないって、わかってるんだ」
当然、暦の話だ。高校時代一緒にバイトしていたショップで働き続ける暦は、修理や制作も請け負い始めた。初心者向けに簡単なトリックの実践も交え、人懐っこい接客で、長く続けたいと思えるような、スケートを好きになれるような対応と、個人に合った正確な調整をしてくれると評判らしい。
とんでもなく上手いわけじゃない。だけど、あいつのスケートは人を惹きつける。それは俺も良く知っている。
まして、一番近くで、一番長い時間見続けたこいつは。
「人に親身なのも、スケートバカなのも、みんなにやさしいのも、全部知ってる。全部暦の好きなところだし。俺に悪いって思ってくれてるのもわかってるし」
追加の水を注いでやる。零される内容をかいつまむと、ランガとの約束があったけど、親身になりすぎて結構な時間オーバーしてしまった、ってところか。聞き分けない我儘は言いたくない、というか、スケートが好きな暦が好きだから、それに文句なんてないのも本当なんだろう。
でも。
「……暦が悪いんだ」
白い指が、水の入ったグラスをもてあそぶ。肘を付き、不機嫌そうに眼をそらしている。仕方ないってわかってる。そう言いながらも暦が悪いと言い募る表情は――そう、拗ねている。
「暦が、俺を甘やかすから」
いつも、いちばん近くで、俺を見て笑うから。
触れる指が熱いから。
名前を呼ぶ声がやわらかいから。
ほそめられた目が甘いから。
そういうのが全部俺にだけだって、知ってしまったから。
それが当たり前すぎて意識すらしてないみたいに。ついこぼれたみたいに自然に。
ずっと、俺が特別だって叫び続けてるから。
――そんなの、秒ごとにもっと好きになるに決まってる。
「暦のせいで、俺は暦がいなくちゃ生きてけなくなっちゃったんだ」
滔々と紡がれる情熱的な言葉は、酔った頭だから流れてくるのだろうか。それとも、若く素直だからだろうか。
そこで大人しくなったランガは、またうたた寝しかけているらしい。けれども俺は、さっきほどにはなんとかしようと思えなかった。
暦がどんなにランガを大切にしているか、近くで見て知っている。それこそ自然に溢れ出ている。だけど、ランガ自身がそれをどう受け取っているかなんて、そんなのを知ったのは本人が語った今が始めてだ。そんな風に、伝わることもあるのだと、知ってしまった。ならば。
俺がそうした人間も、少しは同じように思ってくれているのだろうか。
顔を覆う。だって、誰かを甘やかす、だなんて。どうしようもなく覚えがある。
――ずっと、ずっとだ。
一番近くで名前を呼んで、その前でだけ幼くなれて。
何より誰より特別で、息するみたいに甘やかして。
執着も初恋も全部あふれだして。
もう二十年だ。あいつが俺なしで生きていけないように、仕掛けようとした時期もあった。だけどあいつは昔から変わらずあいつだった。俺なんかになびかない高潔さ。
それが俺が心底惚れたあいつだ。それでいいと思ってたのは本当だ。けれど。
今朝別れた時の、何か言いたげな瞳を思い出す。あの視線の意味が、もしも。俺に都合のいいものだったとしたら。
――店の外にバイクの音が聞こえる。お迎えだ。水を飲ませた時に呼んでおいたのが到着したらしい。一分もしないうちに、名前を叫びながら飛び込んでくるのだろう。
そうしたら眠りこける酔っぱらいを押し付けて、さっさと店を閉めさせてもらおう。あとは若い二人でごゆっくり、だ。
きっと今夜も、閉店後に無遠慮な昔馴染がやってくる。俺はそいつのために、席と白ワインの用意をしてやらなきゃならないんで。