そういえば帰ってきてるんだっけ。兄が寝起きしていた部屋に電気がついているのが見えて、わたしはそっと近付いた。
兄が家を出て恋人と暮らし始めたのは二年前。いくつも貼られていたポスターなんかは新居に持って行ったみたいで兄の気配は薄くなっているし、妹たちの物が増えてきたこともあって半分以上物置になっている。でも兄が使っていたままのベッドや机が残っている。多分、今夜もここに泊まるんだろう。開いたままの引き戸を覗く。
いつか見たのに似た光景。ベッドを背もたれに座った兄が、片手に恋人を抱き寄せて眠っている。肩に頭をもたれられて、腰を抱き寄せる兄は、相手は確かに恋人なのに、幼かった妹たちの世話をしていた姿を思い出させて。
声を出して笑ったのが聞こえたのか、肩にもたれた彼が目を開ける。わたしと目が合うと、やわく笑って手招きされる。
そんな、実の兄が、いちゃついてるところに、来いと言われても。そうは言っても兄の恋人自らのご希望なので。寝てる兄を起こさないように、そっと彼――ランガくんの前にしゃがみこんだ。
「……こんにちは」
「ひさしぶり」
気まずいやら照れくさいやらのわたしに反して、彼はにこにこしている。眠りを邪魔しない程度の声で世間話をしながら、出会った頃からもっと綺麗に、もっと言うと色っぽくなった気すらする彼を見る。恋は人を美しくするなんて言うけど、ここまでにしたのが兄だというならそれはそれで不思議な気分だ。
「月日?」
名前を呼ばれて我に返る。顔を凝視するなんて失礼な事をしてしまった。なに?と問うと、彼は兄の肩を叩く。自分がもたれてるのとは反対側を。……え?
「一緒に甘えよう?」
何を言うんだろうこの兄嫁は。いや婿?そんなことはどうでもいい。
固まるわたしが想像通りだったのか、彼はいたずらっぽく微笑む。どうしよう、からかってくるときのお兄ちゃんと同じ表情だ。こんなところでまで仲の良さを出してこなくていいのに。
「ごめん、つい。反応が可愛くて」
そういうところだ。
「でも、冗談言ってるわけじゃないよ」
彼はほんの少しだけさみしそうに笑う。
俺が暦を連れてっちゃったのは本当だから。お母さんも妹たちも暦が大好きなのに、俺が独り占めしちゃってるから。
「ランガくんのせいじゃないよ」
ごめん、とでも言いだしそうな彼を慌てて遮る。わたしの声に身じろいだ兄に起こしたかと焦ったけど、すぐに寝息が聞こえてきて胸をなでおろす。それからまた兄のパートナーを見る。
「ランガくんといる時のお兄ちゃん、すっごく幸せそうだもん。高校生の時からそう。二人はいつか一緒に暮らすんだろうなって、ずっと思ってた」
大好きな二人が幸せなら、わたしたちだって幸せもらえるから。ね?と笑いかければ、彼は安心したようにやわらかい表情を見せてくれる。初めて見る表情。お兄ちゃんの前ではいつもこうなんだろうな。お兄ちゃんが独り占めしてたランガくん、わたしが貰っちゃった。
「でも、たまに暦寂しそうなんだ。これだけの大家族で暮らしてたんだもんな。妹甘やかしたいって言い方する事もあるよ。特に月日は七日たちが生まれて『お姉ちゃん』になっちゃったから、もっと甘やかしてやりたかったって」
「~~いつの話を……!」
双子が生まれた時だって九歳で、兄に甘えるなんて歳じゃなかったのに。まして今なんて、もっといい歳なのに。うなるわたしに、彼は目元をほころばせる。
「お兄ちゃんに甘えたいのに、歳は関係ないと思うよ」
家族なんだから。
そう言う彼はとてもきれいで、まっすぐ本心からそう言ってる事がよくわかって。……ふっと、何かが軽くなった気がした。そういう気分の時が、ないわけじゃない、のは、そうだから。
彼の反対側、だらりと落ちた腕を持ちあげ、身体との隙間にもぐりこむ。眠ったままの兄の、そこそこ鍛えられた腕が重い。
きゅっと身を寄せる。目を閉じる。
「……あったかい」
十年以上前、わたしだけのお兄ちゃんだった頃みたいだ。ふたりとも全然変わってしまったのに。歳も身長も、それから彼の存在も。
「……わたしとランガくんが昔の七日と千日みたい」
「ほんとだ」
軽く跳ねる声に目を開ける。わたしを見た彼が、兄の背中を示す。ベッドとの間に手を差し入れれば、わたしの手を握る大きな手。わたしに向かって細められる瞳。つられて同じように笑みがこぼれる。
大好きなふたりのお兄ちゃんの体温を感じながら、わたしはもう一度目を閉じた。