さわるだけじゃたりない

 唇にやわらかいものが触れている。羽みたいに軽い触れ方がくすぐったくて唇をすり寄せると、ひそめられた笑い声とあったかい空気、それから清潔な匂いが降ってくる。ひとつ、まばたきをする。
 初めに目に入ったのは、凪いだ海の色。そこから瞬きを何度か。俺の目の前に転がってるのは俺の大事なヤツで、唇に触れていたのは白い指だと知る。人差し指と中指の二本。触れるか触れないかでなぞったかと思えば、ぎゅっと真ん中に押し付けてきたり、間に爪をかけて開こうとしてみたり。ふにふにと触られ続ける唇をそっと開く。
「……ランガ」
 俺の声は寝起き特有のかすれ方をしている。気付いたランガがこっちを見る。まだ寝ぼけた、それでもまっすぐな俺の視線を捉えた海色が光を受けたみたいにきらめく。唇に触れていた指が今度は頬に触れる。嬉しそうに端が上がった唇が、そのまま近付いてくる。――触れる。
 ほんの少し掠めるみたいに、端から端までなぞるみたいに。ランガのキスはさっきの指と同じ触れ方だ。目を閉じて感触を楽しむみたいに何度も重ねてくるのが可愛くて、でもちょっと物足りなくて、俺は片手でランガの頭を引き寄せる。ぐっと触れる面積が大きくなった唇を、少しだけ出した舌で濡らす。
「んっ……」
 もう一度強く押し付けて唇を離す。ふたたび現れた青が俺に向かってやわらかく細められる。
「おはよ、暦」
 起きてくれてよかった。キスで湿った唇に寝てた時みたいに触れながらランガが言う。指先があたたかい。シーツに散らばるいつもふわふわの髪は少し水分を含んでうねっている。
 ついに母親のシフトが出るなり俺に報告してくるようになったランガと一緒に待ちわびていた夜勤の日。先にシャワーを借りてランガを見送った俺は、一足先にランガの部屋で待ってたはずだ。そこからの記憶がないから、多分ベッドに転がったまま眠ってしまったんだろう。
 俺と向かい合って寝そべったランガは鼻歌でも歌い出しそうにご機嫌に俺の顔中にキスしてくる。頬、まぶた、鼻、口の端。今度は唇にはしてこなくて、代わりに熱を持った視線を向けてくる。誘われたら応えなきゃ男じゃない。唇を捕まえたまま身体ごと引き寄せて、ついでにベットに座って抱き上げる。俺の脚に跨って首に腕を回してきたランガの頭を撫でてやる。
「……寝てるとき、俺の唇触ってたろ」
 ちょっとだけ呼吸の荒くなったランガを見上げる。俺の襟足をいじりながら首を傾げる。
「起こしちゃった?」
「起こしてくれてよかったんだけど」
 寝るためだけに泊まりにきてるわけじゃねえし。そうは言わずに腰に片腕を絡めて、もう片方の親指を唇に添える。
「もっと王子様っぽい起こし方もあったんじゃねーの?」
 また王子様じゃない、って言われるかな。そんな想像は次の瞬間ぶち壊された。手首を掴まれたかと思えば、親指が触れた唇がゆっくりと開いた。指の腹をなぞる生暖かい湿った感触、ちろりと覗く濡れた赤。伏せられた長いまつげが上がって、溶けだしそうな青が俺を刺すのと同時、ちゅぱ、音を立てて吸われた親指が離される。……背筋がぞくぞくする。
「暦、お姫様になりたかったの?」
「うるせーな」
 当然、煽られたのを見透かされてるんだろう。それがちょっと悔しくて、捕まった親指以外の四本で頬を叩く。ランガはくすぐったそうに笑う。くそ、かわいい。
「で、寝てたら口にはしてくれねぇの?」
 茶化すような訊き方をしたけど、知りたいのは本当だ。澄んだ青色を見つめる。
「したことはあるけど」
 あるのか。
「起きてる暦とのキスの方が好きだから、最近は意識ないときは我慢してる」
 その分、早くキスしたいから早く起きないかなあって思いながら触ってる。
 そう言うランガは、ふわふわした甘い表情を浮かべている。
「……お前さぁ」
 思わず顔を伏せる。肩に額を押し付ける。だってお前、そんな顔で俺とのキス考えてるんだろ。
 そういうところが、本当に。
「ランガ」
 両手で頬を包んで、両親指で唇に触れる。真ん中から端に押し付けるように動かす。額を合わせて、吐息のかかる距離で海色を見つめる。
 重ねた唇を、今度は最初から舌で割り入った。

 長く吸われた舌が離れて、新鮮な空気が流れ込んでくる。暦はキスが上手い。唇はもちろん歯の表面、顎の裏。舌先まで器用な暦は俺の口の中のいいところをくすぐって、舌を絡めて吸い上げて、俺はすぐにとろとろにされてしまう。
「……すんなよ、我慢」
 鼻の触れる距離で囁かれた言葉の意味がわからなくて首を傾げる。俺が暦のことで我慢してることなんて、たぶんほとんどないんだけど。
「さっきの。寝てる時の話。我慢なんかすんなっつってんの。フェアじゃねーから」
 俺の唇を指でなぞる暦にさっきの話を思い出す。キスが気持ちよくて忘れてた。というか、聞き流せない事を言われてる気がする。フェアじゃないっていうのは、もしかして。
「……暦、寝てる俺にキスしてるってこと……?」
 暦は俺の目を見てくれない。こぼれたみたいな「言うなよ」は、正しいって言ってるようなものだ。
「……なんつー顔してんだよ」
 目と口を開いたまま何も言えないでいた俺を暦が小突く。だって。
「寝込み襲うなんて、とか言うかと思った」
 暦は優しい。人の気持ちに寄り添ってくれて、人のために怒ったりしてくれる。恋人としてだっていつも俺を気遣ってくれるし、痛いことや嫌がることは絶対にしない。俺は暦にされて嫌なことなんてないから、もうちょっと好きにしてくれてもいいのに、なんて思ってるくらいだ。
 なのに。
「だってお前、嫌じゃねぇだろ」
 俺の大好きなメープルシロップに似た色の瞳は深さを増して俺を見つめている。その瞳が、言葉が、「ランガは俺のもの」って言ってるみたいで、心臓が掴まれたみたいに動けなくなる。
「嫌だったら、ごめん。もうしねえから」
 動けなくなった俺が嫌がってると思ったんだろうか。そんな風に逃げ道を作る暦はやっぱりわかってない。暦の頬を掴んで俺の方を向かせる。そのままの勢いで唇を押し付ける。
「やだ」
 俺からのキスに赤くなる暦に言う。俺の言葉にまた顔を背けようとするから、顔を掴んで引き戻す。
「起きてるときにももっとしてくれないとやだ」
 暦からのキスはいつだって嬉しい。でも、キスするのは俺からとか俺がねだったときがほとんどで、暦からしてくれたことなんて数えるくらいだ。なのに寝てるときにはしてくれるなんて、寝てるときの自分に嫉妬しそうなくらい。
「そしたら、いいよ。寝込み襲ってくれても」
「言い方!」
「暦がそう言うなら、俺も我慢しないことにする。物足りなくて夜中起きちゃったときに暦の舐めようと思ったこともあるんだけど、今度はしちゃうね」
「それは起こせよ!?」
「でもやっぱり起きてるときにキスしたいし、して欲しい」
 だから、早く。意思をもって見つめれば、あわあわしてた暦がぐっと唾を飲み込んで、それから俺にキスしてくれる。最初から吸われる舌に身体が震える。
「……なぁ、起きてるときのキスが好きって、どう好きなの」
 息を吸う合間に低くかすれた声が言う。欲を隠さないそれに、胸の奥がぎゅうっと震える。
「……舌で触られて、気持ち良いの、好きだし、あ」
「ん」
 抱えられた腰を撫で上げられて声が漏れる。言いかけたまま唇が塞がれて、続きを言わせてくれない。
「……あとは?」
「……俺だけ見てくれる目が好き。抱きしめてくる腕とか、触ってくれる手とか、呼んでくれる声とか。全部、俺のこと好きって言ってるみたいで、ひゃっ」
 俺が言うごとに温度を増す視線に、言葉をなぞるみたいな熱い手に、何度も重ねられて吸い上げられるキスに、どんどん駄目になる。ぞくぞくが止まらなくなる。
「……今は?」
 今も、お前のこと好きって言ってるみたいに感じる?
 言いながら腰を抱き寄せて、熱いものを触れさせてくる暦はずるい。
「もっと欲しいって、思ってくれてる?」
 答えの代わりのキスを受け入れて、俺は身体を委ねた。