「受け取って欲しい。僕の気持ちだよ」
「結婚誓約書」。愛抱夢がランガに差し出した真っ赤なカードには、その五文字が踊っていた。
「んんーーーーーーーー」
抜けるような秋の空。少しだけ冷たくなってきた風が吹く屋上に寝転んで、俺は手の中のものを見つめていた。
「……まだ悩んでるの?」
小さな真っ赤なカードを手に頭をひねる俺を冷めた目で見て、隣のランガはやきそばパンにかじりつく。
カードには「結婚誓約書」の文字。その下に続く内容は簡単な質問と写真スペース。祝勝会で降ってきた愛抱夢が薔薇の花束と共にランガに差し出したのと同じものだ。なんで俺までそんなものを持っているかと言えば、あそこにいたトーナメント参加者全員が書けと言われたからだ。
ラブホの、もといスネーク曰く、最近のSでは隠し撮りが横行しているらしい。ジョーやチェリー、ランガみたいな、顔も滑りもいい奴の写真は高値で取引されているという。そういう奴らを黙らせるために、主催側から写真集みたいな小冊子を出版する、のに載せるアンケート、だということだ。
トーナメントと言っても俺はシャドウの代役だし、悲しいことに他のやつらみたいなファンがいるとも思えない。それでもそういうものを作るなら協力したかった。ランガの写真が出回ってるとか、気に入らねえし。
とはいうものの、その質問というのが曲者で。
「これが見られると思うとなーーー…………」
その質問ってのはこうだ。
Q1.プロポーズはきちんと準備してサプライズしたい?
Q2.披露宴は盛大にしたい?
Q3.いってらっしゃいのキスは毎日したい?
Q4.ハネムーンはどこに行きたい?
なんだこれ。月日の部屋で見た事あるぞこういうの。サイン帳ってやつだろ。
「暦はモテたいんだもんな」
いろんな女の子に見られる質問、下手な答え方出来ないよな。
やきそばパンを食べ終えたランガが無表情のまま言う。それほどの間、俺は考え込んでいたらしい。ランガはそう言うけど、俺が答えにくい理由は少し違う。
モテたいわけじゃない。……と言うと嘘になるけど、見られたくないのは、知らない何人もの女子じゃなくて、たった一人。
身体を起こしてランガの隣に座り直す。口を、開く。
「……お前は、書いたんだよな」
「とっくに」
「なんて書いたんだよ」
瞬間、落ちた沈黙になんだかすごく緊張した。書くのに迷ってるから参考に聞いたみたいに聞こえてればいいんだけど。俺が知りたいから、っていうんじゃなくて。
自分の表情がわからない。だというのに、当のランガは俺の顔をじーーーっと見てくる。無言で、ずーーーっと。
耐えられなくて、目を反らす。反らしてから、不自然だったんじゃないかと気付く。冷や汗がごまかせないんじゃないかと思い始めた頃、ランガはため息混じりにいいよ、と言ってくれた。
「Q1は、No」
「まじか」
「暦はYesなんだ」
つい漏らした言葉に即座に突っ込まれる。プロポーズのサプライズ、俺はしっかり計画したい方だ。
決まってるならさっさと書けばいいのに、という視線を感じる。だから、それは違うんだって。
「まぁ…好きなヤツの前ではかっこいいとこだけ見せたいじゃん」
だから、本当は四六時中かっこつけていたいんだ。なにせ、四六時中一緒にいるから。
「ふーーん……」
何を思ったのか、ランガはまた俺の顔を見つめ続けている。緊張に乾く喉を炭酸を飲み込んでごまかす。
「Q3はYesだよ」
吹き出すところだった。なんだって?いってらっしゃいの?
「父さんと母さんがそうだったから」
日本じゃあんまりしないみたいだね。
続いた言葉に少し安心する。なんだ、カナダのお国柄か。むせた息をやっと整える。
「それに――俺も、想像したら、したいな、って思った」
今度こそ、息が止まる。ランガの顔を見る。視線は地面に伏せられてこそいたけれど、それでもわかる。――甘い、やわらかい、やさしい表情。まるで、愛おしいものを見るみたいな。
おまえ、そんな顔で、そういう想像する相手がいるのかよ。ずっと近くにいたのに。俺知らねえぞ。
「そっ、か」
どんな声だったかなんて取り繕えない、そう言うのがやっとだった。見ていられなくて、ランガの顔から目を逸らす。ランガが俺の方を見るのを感じて、ヘアバンドをずらす。多分、見せられない顔をしている。
「……暦って鈍感だよな」
肩が触れる距離から、更に近付いて。ランガが俺の顔を覗き込んでくる。俺の脚に頭を乗せるみたいに回り込んでこられたら、ヘアバンド下ろしてたって隠せやしない。
「暦、どうしてそんな顔してるんだ?」
なんだよ、俺どんな顔してるんだよ。
「迷子みたいな目。なんで?」
なんで?そんなの俺が知りたい。
「――俺と誰かとのキス、想像した?」
だって、それでそんな情けない顔してるって認めたら、それは。
「暦」
頬に触れられ、指先でヘアバンドを上げられる。否応なしに目に入ったランガは、まっすぐ俺を見て、笑っていた。
――甘い、やわらかい、やさしい、ついさっき、そう、「キスしたい」って言ってた時に見た、
「え」
「気付いた?」
頬を撫でる右手はそのままに、左手は俺の手を探し出す。きゅっと指が絡められる。
「ねぇ暦、結婚しよう」
確かに、準備も何もなかった。さっき聞いた通り。でも。
……さすがにサプライズすぎねえ?
—–
「色良い返事を期待しているよ」
「結婚誓約書」。愛抱夢がみんなに配った赤いカードには、そんな五文字が踊っていた。
11月に入って、昼の屋上も少し温度が下がってきた。そんな風に冷えていそうなコンクリートに転がって、暦はうなり続けている。俺はパンを飲み込んでから言う。
「……まだ悩んでるの?」
暦が持っているのは「結婚誓約書」と名付けられたアンケートだ。Sで人気のスケーターの記事を作るためのものらしい。俺はいい機会だと思ってさっさと書いてしまったけれど。
「これが見られると思うとなーーー…………」
プロポーズはサプライズしたいか。披露宴はどうしたいか。いってらっしゃいのキスは毎日したいか。ハネムーンに行きたい場所。確かそんな内容だった。暦は何をそんなに悩んでいるんだろう。
「いろんな女の子に見られる質問、下手な答え方出来ないよな」
暦は何か言いたげに俺を見てくる。否定も肯定もしない、そんな感じだ。俺が言ったのが間違っていなくても、理由はそれだけじゃないってことだ。
「なんて書いたんだよ」
そう聞いてくる暦は俺の反応をうかがっているように見える。まっすぐに見つめ続けると、暦の表情は動揺を増していく。目が泳ぐ。逸らされる。さらにしばらく見つめてからいいよ、と言えば、大きい目が明るく俺を見る。
ねぇ暦。それはどういう反応なの。俺が書いた答えが知りたくて、どうしてそんな反応になるの。
最近暦はこういう事が多い。そういう顔をされると困る。都合よく考えてしまいたくなる。
「Q1は、No」
「まじか」
「暦はYesなんだ」
プロポーズは準備したい。結構ロマンチストだとは思ってたし、暦らしいかもしれない。でも、 かっこつけようとしてかっこつくものなのかな。宮古島への船でナンパしようとしてた時のことを思い出す。
「まぁ…好きなヤツの前ではかっこいいとこだけ見せたいじゃん」
「ふーーん……」
『好きなヤツの前では』。それは、そう思う相手がいるって事だろうか。学校でもバイトでもSでも俺といるのに。かっこつけようとしてなくても、暦はかっこいいのに。
「Q3はYesだよ」
暦は思い切りむせた。いってらっしゃいのキス、これは俺がどうっていうわけじゃなくて、両親がそうだったから当たり前だと思ってたんだけど。日本ではそうじゃないみたいだし、照れ屋でロマンチストで恋人がいたことがない暦には刺激的だったらしい。
そう思った前半だけを伝えれば、息を整えた暦が安心したみたいに息をつく。――何に安心したの?呼吸が落ち着いたから?俺の両親がそうだって言ったから?
「それに――俺も、想像したら、したいな、って思った」
これは、本当だった。ゆるく目を閉じて、もう一度考える。玄関先、家を出る前の両頬に、唇に、キスを贈りたい。今日も愛してる。一日幸福でありますように。そうしたらきっと恥ずかしがりだからちょっと眉を下げて笑って、行ってきますって言ってくれるんだ。そんな毎日を、一緒に送れたら。
「そっ、か」
どこかかすれた声だった。俺が顔を上げると、そっぽを向いた暦がヘアバンドを掴んで下ろしているところだった。まるで、涙を隠そうとしてるみたいな。
だから、ねぇ、暦。
「……暦って鈍感だよな」
俺には他に、誰もいないのに。
「暦、どうしてそんな顔してるんだ?」
うつむく暦の顔を下から覗き込む。
「迷子みたいな目。なんで?」
そんな顔見たくなんてないけど、俺が話したことのせいなら。
「――俺と誰かとのキス、想像した?」
もう、勘違いじゃないだろ?
「暦」
頬に触る。ヘアバンドを上げる。間近で見つめる暦の瞳が見開かれる。
「え」
「気付いた?」
俺、今どんな顔でお前を見てる?
頬を撫でる。手を握る。指をきゅっと絡める。額の触れる距離で、俺は口を開いた。
その日のクレイジーロックは騒然としていた。なんでもこの前のトーナメント参加者の写真集が出るらしい。普段メインスクリーンで流れているビーフの映像からの切り取りの他、愛抱夢が秘密裏に入手した激レアショットも含まれているとか。友達のガチチェリー推しは夜の早いうちからゲートの前に並んでいた。
私はきっとそのうちネットにも公開されると踏んでいつものように山を登っていた。乗り合いの車の荷台の上、件のチェリー推しから画像が届く。無事手に入ったのかな。開いた画像は……何?婚姻届?
『やばい』と添えられたその画像は写真集の結婚観アンケートのページらしく、送り主は推しのプロポーズを妄想して死んでいる。次々に送られてくる人数分の画像を興味深く眺める。へぇ、いってらっしゃいのキスねぇ。
軽トラを下り、いつもの広場に着くと、何戦目かのビーフが始まろうとしているところだった。スターティングポジションの奥にいるのが誰かはちょっと見えない。近い方に見えるのは、さっき貰った画像の中にもいた赤毛の少年だ。そこに、いつも一緒のトーナメント勝者が駆け寄ってくる。そして。
……いってらっしゃいって、レースのスタートにも使うんだっけ?