月の夜にカリムくんとヴィル様がお話してるだけの話
妥協ができない監督だった。もちろん半端な仕事なんて自分も自分に許さないから、望むところだった。ティーンズ誌だろうと、求められるならば誠意を込めて向き合わないと、ヴィル・シェーンハイトの名が廃る。
そんな現場だったから、学園に戻って鏡舎へ向かって城を出た時には、月は既に高いところで微笑んでいた。
スタジオは空調が効いていたけれど、イースターから日の浅い季節の夜はまだ冷える。睡眠時間の確保のためにも、早く寮に帰らなければ。足を早めた時だった。
月夜を不自然な影が漂っている。重力に逆らいふよふよと揺れるそれは、間違いなくこちらに近付いてきている。それの正体には、心当たりがありすぎた。
その飛行体は、ヴィルが訝しげに見ていることに気付いたのか、大きく手を振ってきた。近付いてくる速度が上がる。
「ヴィルーーーーー!!」
快活な少年らしい、よく通る声。夜すら昼間に変えそうな、太陽に愛された魅力を持つそれ。
こんな時間に大声で名前を呼ばないで頂戴。出かかった言葉を口に出せなかったのは、スピードを出しすぎていた絨毯が、ヴィルの横で急ブレーキをかけたからだった。フリンジを掴んでなんとか落ちずに済んだ絨毯の主――カリムはヴィルを見下ろして笑った。
「おかえり!遅くまで仕事大変だな」
それよりもアンタの飛び方の方が大変よ。これじゃ気が気じゃないのもわかるわ。浮かんだそれらはため息として吐き出して、ただいま、と言ってあげることにした。
カリムは絨毯ごとヴィルの顔の高さに下りてくる。普段は見下ろす褐色の顔を同じ高さで見つめ、ふと気付いた。
「……アンタ、綺麗になったわね」
大きな赤色が見開かれる。それから、ヴィルの瞳に偽りが見えなかったからか、零れるように破顔した。
「ありがとな!きっと貰った化粧水のおかげだな。VDCの合宿からずっと使ってるんだ」
「当然」
あの時渡したものはヴィル手ずからの調合だ。そう言われて悪い気はしない。
「ちょっと聞きたい事があって探してたんだ。寮に行ったら今日は仕事だってルークが言うから」
歩きながらでいいから聞いてくれよ。ふよふよと漂う声が言う。まぁ、たまには悪くない。
「いいわ。アタシの化粧水ちゃんと使ってるご褒美。鏡舎までなら聞いてあげる」
「ほんとか!?」
歓喜がありありとわかる声はボリュームも伴っている。だから時間と場所を考えろと。
「さっさとなさい」
「お、おう。えっとな。――フェアリー・ガラの時、言ってただろ。世界のショーを目指せるって話」
呼吸を整えてから紡ぎ出された声は、驚くほど静かで。
「言ったわね。実際アタシの指導の下でなら無理じゃないと思ったわ。あれだけやる気のないレオナにやらせる気はさらさらないけど」
「できるのか?」
それまでとはまるで異なる声色にカリムを見る。ヴィルを射抜く紅玉は、きらりと鋭い輝きを宿している。
「……何が訊きたいの」
問えば、カリムは今度は目を伏せる。纏う空気は、再びあどけないものになっている。
「ジャミルのことなんだ。あいつ、歌もダンスも得意なんだ。ヴィルも知ってるだろ?VDCの時もヴォーカルに選んでソロパートまでくれたし、フェアリー・ガラでだってダンスを任せてくれた」
カリムの言う事は間違いではない。VDCではエペルを除けば一番見込みがあると思ったし、フェアリー・ガラで協力したのだって、そのジャミルからの要請があってこそだった。視線で続きを促す。
「もしあいつがさ、本気で歌とかダンスの道に進みたがってたら、繋いでやって欲しいんだ」
――目を見開く。思わず目の前の顔を凝視してしまう。ヴィルとしたことが、すぐに応える言葉を紡げなかった。
「……なんだ?」
「いえ、ちょっと意外だっただけ」
何が、とまでは言わなかったけれど、意味するところは悟ったらしい。また少し、周りの空気が変わる。
「だって、ジャミルはすごいだろ?歌もダンスもそうだし、料理だってできるし、勉強を教えるのもうまい。なによりこの学校を優秀な成績で卒業するんだ。将来、なんにだってなれる」
星空を見つめるその瞳は、空の広さに未来の可能性を重ねているのだろうか。生まれた時から決められた己の将来より、はるかに広がる可能性を。
「ジャミルはダンスが好きだから、もしかしたらそうやって生きていきたいのかもしれない。だったら、オレはジャミルがやりたい事をやる手伝いがしたいんだ」
――件の彼が聞けば、権力で身を縛る立場で傲慢な事を、と憤っただろうか。けれど、夜にきらめく瞳は、それが本心だと語っていて。
「……アンタのコネで、なんて知ったら嫌がるでしょう」
「う。……そこは、黙ってて欲しいな」
当然、自覚はあるらしい。大きく息を吐き出す。
「……それを引き受けたとして。知っての通り、アタシはじき四年生になる。実習に出れば学園にいる時間なんてたかが知れてる。ジャミルがそうしたくなったとして、気付いてやれる暇なんかないわ」
「構わないぜ」
――また、この声だ。貫くような、鋭いきらめき。
「多分、そうはならないから。そうならないように、オレが頑張るから」
「……は?」
赤い輝きを正面から受ける。ヴィルはその瞳を知っていた。芸能界で、嫌というほど見た事がある。
欲しいものは、何がなんでも手に入れるという、捕食者の瞳だ。
歌やダンスだけじゃない。他の何もかもが選択肢にならないくらい、自分の側を選ばせ続けてやると、そう言っているのだ。
ああ、そうだ、彼はそういう立場の者なのだ。
普段と違う色をしているわけではない。なのに、その紅玉は、ぞっとするほど、
「……ほんとは、オレだから、って言って欲しいんだけどな」
打って変わって力なく笑う声は、恋する少女のようで。
……ああもう、難儀な子たちね。
「いいわ、覚えておいてあげる。言われなくても、本当に芸能界に通用しそうならアタシから声を掛けるもの」
原石が埋もれるのを見てるのは趣味じゃないの。
「それでいいぜ!」
今度はまた無邪気な声。
そう長い距離を歩いたわけではないのに、なんだかすごく疲れた気がした。
目指していた寮への入り口が近付く。鏡舎へ滑り込んだ絨毯はを迎えたのは、いつも近くに聞こえる従者の怒声だった。
「お前はまた勝手に抜け出して、どうして風呂入ったあとにそういう事するんだ、二度手間になるだろ、俺の仕事を増やすんじゃない、なんで今日に限って寮の外なんだ、探す場所が増えただろう」
ヴィルが鏡舎に入ってからも、早口の文句は連なっている。
「ああ、ヴィル先輩。一緒だったんですね。こいつがとんだご迷惑を」
深く頭を下げながら、絨毯に乗ったままの頭を無理矢理下げさせるのは主に対する態度なのだろうか。別に、と答えながら二人を見下ろす。
「もう遅いわ。アンタたちも早く寝なさい」
「はい。ありがとうございました」
「じゃーなーヴィルー!またなー!」
おやすみ。蛇のエンブレムの鏡に消えていく二人を見送る。壁に肩を預ける。
「騒がしかったわね……」
息をつく。去ったばかりの主従の姿を思い返す。
ジャミルの長い黒髪は背中に垂らされたままだった。本当に寝ようとしていたところに、身支度する暇も惜しんで探しに来たのだろう。主の身を案じて。VDC合宿深夜のつまみぐい騒動を敵襲かと思ったことといい、物騒極まりない。けれど。
「あんな事言ってたけど、十分絆されてるんじゃないかしら」
一体何に巻き込まれているのだろう。そのうち砂でも吐きそうだ。
「まぁ、でも」
欲張りな赤い輝きを思い出す。大富豪の当主としての彼になら、依頼を受けても損はしない。
「スポンサーを増やしておくのも、悪くないかしら」
唇に指先を添えて、女王は美しく微笑んだ。
***
「ヴィルー」
「何よカリム。何か用?」
「この前はありがとな!話聞いてくれたお礼したくて」
「あら、何も言わないでおいてあげたのに。アタシの望むものをくれるのかしら?」
「ヴィルは四年の実習はどこ行くんだ?あ、芸能活動に戻るのか?」
「冗談、ここに籍がある以上は使い倒すわ。薬学研究院にアタックするつもりよ」
「んー、じゃあうちの製薬企業紹介するのはお礼にできないか」
「……ちょっと」
「じゃあこれ」
「ちょっ、アタシのノートに書かないで……なにこれ」
「公表してないけど、馴染みのブランドが新しいラインにアンバサダー探しててさ。ヴィルに似合うと思うから、よかったら連絡してみてくれよ」
「……アンタってほんっと」