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昔、俺たち人魚の先祖には、陸に上がって人間と結婚した女の子がいたらしい。
時代が下った今は、陸の人間は人魚をほとんど滅んだ種族だと思ってるっていう話だし、海の上なんて行くもんじゃない、陸の奴らは人魚を食おうとする、って大人は言う。
でも、ずっと不思議だったんだ。どうしてその子は陸に上がったんだろう。海の上の、人間の、何を好きになったんだろう。
灰色だ。
目の前も、海底も、水面も、全部が灰色だ。目に入る世界ぜんぶが、何も感じない、灰色。はじめはぜんぶ真っ黒で、それからぜんぶ真っ白になって――灰色になった。
……なんで、そうなったんだっけ。
「……あれ」
目を開けると、そこは知らない場所だった。周りは全部灰色の岩肌に囲まれ、浅い水底はどこにも見えない。強い水流が身体にぶつかってくる。
流されて洞窟に迷いこんじゃったのかな。夜になる前に母さんのところに帰らないと。そう思っても、陽の光の弱い洞窟の中では時間のヒントがない。どれくらいの長さがあるかわからない以上、流れに逆らって来た方に泳ぎ続けるのも良い手段とは思えなかった。ゆるく考えをめぐらせる間にも、俺の身体は少しずつ流されている。
――不意に、尾びれの方に落としていた視線の先に、淡く揺れるものが見えた。視線を上げると、光の筋が洞窟の上の方から注いでいる。きっも上の方に穴が開いていて、陽の光が直接通ってるんだろう。この明るさならまだ陽は傾いてなさそうだ。今から帰れば母さんには心配を掛けずに済む。たぶん。
そうは言っても帰り道がわからない。この先に進んでも、知っている場所へ出られるかもわからない。それだったらきっと、あの光から出て外側を探すのが一番早い。それに――どうしてだろう、あの光が呼んでいるような気がする。
飛び込んだ光の帯の中はなんだかまぶしくてくらくらして、だけどなんだかあたたかい。よし。
「……行く」
水面を目指して、俺は水を蹴りだした。
空気の中に顔を出す。風を感じた肌がひんやりする。水中より重くなった髪が落ちてきて、顔に張り付いたそれをかき上げて辺りを見る。洞窟は高く吹き抜けていて、すぐのところで外に続いているのがわかった。光はここから注いでいたらしい。ぱしゃり、俺の動きに水が音を立てる。
洞窟の外、青空の下。すぐ近くに小さな浜が見えた。地上に続く岩の形からするに、小さな入り江の内側みたいだ。奥に見える木々の緑に、地面だなぁと今更なことを思う。
――かすかに生き物の声がして、岩の後ろに隠れる。ほんの少しだけ頭を出して、浜をうかがおうとする。その時だった。俺の上を水しぶきが舞う。つられて上を仰いで、俺は目を見開いた。
青空の下、水しぶきに沿って色の帯ができている。赤黄青、宙ににじむ色彩は水滴に透けてきらきらしている。――水の上って、こんなきれいなものがあるんだ。
帯の根本を追いかけて視線を下ろした先、鮮やかな赤が飛び込んでくる。驚いたみたいに俺を見る、夕日の色の瞳――。
「……あ」
人間だ。
気付いたら俺は隠れていたはずの岩の上に身を乗り出していて、だから浜の人間からも尾まで見えてしまっているはずだ。俺が人魚だってことが知られてしまっている。大きく見開かれた瞳、俺に注がれる視線が証明している。
どうしよう、食われるんだっけ。きゅっと目をつむる。このままじゃダメだ、ここから離れなきゃ。空中で勢いをつけてから海に飛び込む。全身が水に包まれる。
――次いで身体を襲ったのは鈍い衝撃だった。目を開けると目の前は一面岩肌で、ここが入り江から近い浅瀬だったことを思い出す。俺は思い切り岩にぶつかってしまっていた。慌てすぎじゃないか。ぶつけたとわかったらじわじわ痛みを感じて、浮かび上がったままに岩にすがりつく。
「……大丈夫か?」
人の声の形に空気が震える。身体の上に影がかかったのを感じて身をよじると、浜にいた人間がすぐそこにいて、俺に手を差し伸べている。その目は、岩に倒れる俺を見たからだろうか、本当に『痛そう』以外の色は見当たらなくて。
……少なくとも、すぐに取って食われるってことはなさそうかな。
手をのばす。日に焼けた手は、見た目の通りにあたたかかった。
彼がいた浜には、貝殻や枯れ木や木の実、それから壊れた道具らしきものがいくつも並べられていた。
「こういうガラクタがさ、浜に流れついてくるんだよ。んで、拾い集めて洗ってんの」
長細いものから出る水を貝殻にぶつけならがら言う。ホースというらしいその管で、浜の奥にある彼の家から水を運んでいるらしい。そういえば人間は海の水を飲めないんだっけ。昔誰かに聞いたな、とぼんやり考える。
浜のそばの岩場、尾を海に浸し、上半身を岩にもたれながら、漂着物を洗い流すのを眺める。時折、放たれる水がきらきらと色付く。さっき見た、空にかかる色の帯みたいな――
「……さっきの、」
気付いたら、口に出していた。
「さっきのきらきらしたのは、どうやったの」
赤とか青とか黄色とかの、細かい水しぶきと一緒に見えたやつ。
そう尋ねて答えを待った。だけど、しばらく待っても答えが返って来ない。さっきまではあんなに饒舌に自分のことを話していたのに。不審に思って彼を見る。呆けた顔で、俺を見ている。
「……あの、」
「……人魚の声って、初めて聞いた」
――そうだ、俺はしゃべってしまっている。それまで声は出してなかったのに。危ないかもしれない、人間の前なのに。
「やさしくてきれいだって話、本当なんだな」
初めて聞いた人魚の声にか、それとも俺がしゃべったからなのか。ふっと目元をゆるめてやわらかく笑う彼の表情がなんとなく落ち着かなくて。
「……変なヤツ」
つい、尾で水を叩く。彼が悲鳴をあげる。水がかかったらしい。
「うわ、下までびしょびしょ……まぁいいや。で、えっと、これのことか?」
彼の手がホースの先の握り方を変える。水の出口が変形して、細かいしぶきが宙に舞う。にじむ色彩。
さっきと同じ色の帯が、空の下にあらわれて、俺は目を見開いてしまう。
「……そう!これ!!作ろうとして作れるものなんだ!?」
「太陽光と霧を出す方向を調整すればな」
細かい水しぶきを人間は霧と呼ぶらしい。色の帯ができるのは空気と水で光の通り方が違うからとかなんとか。海の中は全部が水だから見たことなかったのか。
「虹っていうんだ。空に掛かる橋とか言われることもある。あ、橋ってわかるか?離れた場所を繋ぐものっていうか」
「空を……つなぐ……」
それ、すっごくいい。
虹から視線を写した先、それまで見た中でいちばんきらきらに、彼は笑う。
「じゃあ、これは?」
そう言って、いきなり近付いてくる。何かが顔に飛んできて思わず目をつむる。連続でいくつもぶつかってきた小さなそれが止んで目を開くと、周りをただよういくつもの泡。つるつるした虹みたいな表面に周りの景色が写りこんでいる。――海の中の泡と違う。
「……っ!?」
急に、口の中に苦みを感じた。視線を落とすと俺の口の側で泡が割れている。苦いのは泡の味なのかもしれない。気付かないうちに口の中に入っていたのか。
前の方を睨みつける。さっきより近くに来ていた元凶が、さっきとは違う笑い方をしている。いたずら成功、ってところか。
「……何するんだよ!」
尾びれで水を跳ね上げてやる。つめてえ、なんて言いながら、彼は余計にからから笑う。
「悪い悪い、何か他にもこっちにしかない面白いもんねーかなって」
全然悪いとは思ってなさそうに言われて、もっと水をかけてやる。なんだっていうんだ。
「泡なら海にだってあるよ。知ってるんだろ。人だって泳ぎながら息するって聞いた」
海のとは違ったから珍しかったのは本当だけど。なんとなく悔しいから、それは言わないでおく。
「しゃぼん玉っつーの。でもまぁ泡って言われりゃ似たようなもんか……? ……お」
彼は思い出したみたいに浜の奥へ向かう。広げた布の上に置いていた何かを持ってくる。
「おし、乾いてるな」
大きな貝殻を台座に、透明な石や砂、小さな貝殻が飾り付けられている。海の中で見るのとは違う色に彩られたそれのいくつかには、不思議な顔のようなものも描かれている。……どんな生き物のつもりなんだろう、これは。
「さっき洗ってたみたいな流れてきたヤツで作ってたんだ。イカすだろ」
「……uniqueだね」
「褒めてねえだろそれ」
「でも、さっき水かけてたのはどこにでもあるものだったのに。こんな風に加工できるんだね」
そうしようって考えるのと、実際やろうとして、作ってしまうのは、素直にすごいと思う。
思ったままに言うと、彼はくすぐったそうに笑う。
「やるよ、それ」
「え」
「会えた記念。で、そろそろ帰った方がいい」
彼が指さした先には、角度を低くした太陽。そうだ、もともと帰る方向の手掛かりを探しに上がってきたのに。
「夕日、あっちが西な。あっちの岩場は結構ごちゃついてるから、海底の方出るなら南側からだと思う」
深いとこ行けねーからわかんねーけど。彼が言う。なんだそれは。俺が迷い込んだのわかってたっていうのか。
「昔近所のじーさんが言ってたんだよな。若い頃ここで迷ってるのを助けた美人が初恋だったって。だから、もしかしてって思って」
人魚のことだったんだな、あれ。納得したように頷いている。俺が思っている以上に、海の上に来ていた人魚はいるのかもしれない。
「じきに暗くなるしな。俺もそろそろ戻っかなー……じゃあな、気をつけて帰れよ」
俺に貝殻細工を押し付けた彼はてそれだけ言うと、並べていた漂着物を片付け出す。あっという間に布に抱えた彼は、そのまま浜の奥の方に歩き出す。後ろ姿が少しずつ遠ざかる。
行ってしまう。
「……あの!」
考えるより先に声に出ていた。自分でも驚くくらいの大きな声。立ち止まった彼も不思議そうにこっちを見ていて、恥ずかしくなってくる。
「ありがとう。起こしてくれたのも、帰り道も……虹も」
それだけ言って海に潜る。最後に見えた彼の顔は、驚いたみたいな顔――そのあとの、太陽みたいな笑顔だった。
彼の言うとおり、海底に向かって開けているのは南側で、俺の住処までは思ったより近かった。あとで確認したら、あの日迷い込んだ洞窟は住処から離れた入り組んだ場所に入り口があったらしい。あの時の俺はどれだけぼーっとしていたんだろう。
それから数日、俺はあの日帰った道を通って入り江に向かっていた。無事に帰れたことくらいは伝えた方がいいかと思ったし、貰ってしまった――というより押し付けられた、今は俺の住処の片隅にある貝殻細工も含めてお礼もした方がいいと思ったから。何がいいかわからなくて手ぶらだったけれど。
それに、あの色彩が頭から離れなかった。もう一度、見られるだろうか。その思いが、俺を入り江へと向かわせていた。危険だって考えはすっかりどこかに行ってしまっていた。
最初の日と同じように、彼は浜にいた。俺が岩から顔を出してぱしゃりと水音を立てると、音にこっちを向いた彼は大きく目と口を見開いて、それから嬉しそうに笑って。
「なんだよ!今度は迷ったんじゃねえよな?」
お礼を言いに来た。そう素直に言うのはなんだか照れくさくて、俺は水を跳ね上げてしまう。飛沫が落ち着いてから、俺は口を開く。
「……ちゃんと、帰れたから。言っておこうと思って」
彼の瞳がやわらかく細められる。
「そっか。よかった。ありがとな」
目を細めたまま、歯を見せて彼が笑う。……どうしよう、会話が終わってしまう。何か言わないと。言いに来たことを言わないと。
「……あと、」
「ん?」
「見せてくれたやつがまた見たい。『虹』」
途端、明るく笑っていた彼の表情が曇る。目をそらす。何か言いにくそうにする彼に、一気に不安になってしまう。
「あー……それは今日は難しいかなー……」
岩場に寄りかかって、浜から話してくれる彼の声を聞く。曰く、あんなふうに作るには天気が重要らしい。今日は雲が空の大部分を覆っていて、条件がよくないということだった。
「そっか……」
「……見られなかったら、帰っちまう?」
「え」
夕焼け色が、まっすぐに俺を見ている。
「ここ、俺しか来ねえからさ。もうちょい話し相手になってくんね?」
そんなことは、たぶん家族以外で初めて言われた。この前だって、今日だって、急に来たのは予定外だったに違いないのに。
「……じゃあ、なんか作ってるの、見たい」
お互いの名前も知らないことに、その時初めて気がついた。
「それは、何作ってるの?」
「レキロイヤルスペシャルハリケーン」
「……なんて?」