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昔、俺たち人魚の先祖には、陸に上がって人間と結婚した女の子がいたらしい。
船の上の若者に恋した彼女は、嵐で海に落ちた若者を助けて陸まで送り届けた。焦がれた彼と共に在りたかった彼女は人の姿を望んで、魔女に足を得る薬を願った。
それからいろいろあって、彼女は陸の花嫁になったらしい。
今はもう、魔女なんていなくなったって言われてるけど、その人がいたら、俺はどうしていただろう。
だって、彼女の気持ちが、今なら少しわかる。
入り江を包む空は高く抜ける青色をしている。こんなに綺麗な青が顔を出したのはどれくらいぶりだろう。すぐには思い出せないくらい、最近は分厚い雲に覆われ続けていた。
百合の咲く時期からも時間は流れて、雨の多い季節になった。降ってなくても空は濃い色の雲で覆われてる事が多くて、そうするといつ雨になるかわからない。海の天気は特に変わりやすい、人間は雨が降るとできない事が多いから、島の人々は雨には気を付けて動くようにしてる。まだ桜のころ、雲が多くなった日に暦が言っていた。雨の日に行動を変えるのは暦も同じだって。
だから、暦は雨の日には入り江に来ない。雨じゃない日が久しぶりっていうのは、それと同じだけ暦と会えてなかったってことだ。
はじめこそ何日かに一回だったけど、すぐに毎日会いに行くようになった。そのころにも雨が降ることはあったから、何日か会えないことは珍しくなかった。でも、丸かった月が半分になるくらい――二週間も会わなかったのは、桟橋のときに会いに来るなって言われたのを含めても初めてだ。
暦といるのは楽しい。何かを作ってるのを見るのはわくわくするし、楽しそうに弾む声で紡がれる話を聞くのも好きだ。――だけど、最近の俺はおかしい。あの日、熱い夕焼け色にまっすぐに見つめられたときのことを思い出すと、心臓が暴れだす。会えない間は余計、そのことばっかり考えてしまっていた。
今日も桟橋に肘を付いて暦の手元を覗き込んでるけど、暦の顔が見られない。暦も様子の違う俺に何かを思ったのか、何も言ってこない。ただ、くるくると手を動かして流木製の箱を組み立て続けている。
「……今日も、夕立来そうだな」
どれくらい経ったころだっただろう。口を開いたのは暦の方だった。視線を上げれば、さっきまで青かった空は雲に覆われようとしている。
雲の向こうの太陽はまだ高い場所にいる。いつもだったら、もっと夕焼けになるくらいまで、暦はここで作業をしていく。でも、雨が降りそうとなればそうはいかない。屋根も何もない入り江ではどうしても濡れる。作るものもダメになるし、暦自身だって体調を崩してしまう。だから、暦がいつもより早く帰るのも当たり前なんだ。なのに。
「……もう、帰っちゃうんだ」
そんな言葉が唇からこぼれていた。思わず口を押さえるけど、言ってしまったことは戻らない。こんな近い距離、暦にも聞こえてしまっている。
勝手な自覚はある。久しぶりに会えたからもっと一緒にいたい。それは本当だ。でも、一緒にいてもあんまり話さないで、暦の方を見ることすらしなかったのは俺の方だ。それなのに、帰って欲しくないなんて、自分でもおかしいと思う。
会えると嬉しくて離れると寂しい。離れると会いたいのに会えると顔を合わせられない。こんなわけがわからない気持ち、暦に会うまで知らなかった。
くしゃり。髪に重さを感じて鼓動が跳ねる。暦に頭を撫でられている。
俯いていた視線をそっと上げると、あの時に似た夕焼け色が俺を見ている。――また、おかしくなりそうになる。
「――なぁ、賭けてみても、いいかな」
独り言みたいに、暦は言う。
「明日もさ、多分雨になるけど」
思わず、目を伏せる。会えないってことをわざわざ言う暦は意地悪だ。
「日が暮れる前に雨が上がったら、ここに来てくんねえか」
逸らしたばかりの暦の目を見る。夕焼け色は凪いでいて、だけど奥が燃えていて。見ているのは俺だけど俺じゃない、もっと奥深くまで見透かされそうな、そんな瞳をしていて。
暦って、こんなに大人っぽい表情するんだ。
「……うん」
夕焼け色に捕まったまま、俺はうなずいていた。
「ん。約束」
小さく、拳をぶつけた。
灰色だ。
目の前も、海底も、水面も、全部が灰色だ。目に入る世界ぜんぶが、灰色。――それから、ずっと上の方が揺れている。
浅い水底から上を見上げる。いつもは空をと光を透かして青くきらきらして見えるはずの水面は鈍色をしていて、叩かれるみたいにずっと揺れ動いている。――雨だ。
今日は明るくなったころからずっと雨が降っている。太陽はとっくに空のてっぺんを通り過ぎたて、晴れていたら夕焼けが見える時間までもうすぐだ。それまでに晴れたらって、暦が言った時間。
雨は降り続いている。だけど。
水面に向かって泳ぎ出す。だって、万が一にも、これから晴れないとも限らない。それで暦がいなくたっていい、会えるかもしれないチャンスを逃したくない。我慢、できない。
――それに、昨日の暦は、何かが違った。言葉にできないけど、何かを決めたから言ったみたいに見えた。『日が暮れる前に雨が上がったら』って。
水面に出る。海を叩く雫は思ったより勢いがなくて、空を覆う雲も少し薄い。期待している自分に気付いて首を振る。雨は、上がってない。
桟橋に肘を付く。いつも暦が座ってるところには誰もいない。暦がいなくなってすぐの時なら、座っていた体温の名残を感じるのに。
目を閉じて、額を腕に預ける。雨の音は止まない。――やっぱり、来るんじゃなかったかな。ぱしゃん、尾を翻して、水中に戻ろうとする。
そのときだった。
「……ランガ?」
確かに、声がした。振り返る――夕焼け色が、そこにいる。
薄くなった雲に透ける光の中、いつも俺がいた岩にもたれて暦がいた。濡れて重みを増してぺしゃんとなった赤色を伝う雫が落ちる。まるで、暦自身が光を放ってるみたいだった。
「なんで」
いるの。雨はまだ上がってないのに。最後までは言えなかったけど、察してくれたんだろう、暦は近付いた俺に笑いかけてくれる。
「俺じゃなくてお前だよ。なんで」
「だって、暦に会いたかった」
暦の言葉が終わらないうちに口に出す。暦は一瞬ぽかんとして、それからヘアバンドを引き下げて目を隠した。俺も、と落とされる声は、俺をどこかへ連れて行ってしまいそうだ。
「暦はすごいなぁ」
こんなにかっこいい。俺が貰うばっかりで、俺から暦にしてあげられたことがどれくらいあるだろう。なんだか悔しい。だって、俺ばっかり好きみたいだ。
気付けば、夕焼け色がじっと俺を見ている。立ち上がって、俺に手を伸ばす。
「来て欲しいって言った理由なんだけどさ。……一個俺のお願い聞いてくんねえ?」
「? うん」
俺の返事に頷いた暦に手を引かれるまま、岩場に沿って海の中を動く。行きついた場所は見覚えがあった。たぶん、俺が最初に迷い込んだ洞窟だ。
洞窟の中、高い吹き抜けから薄く光が入ってきている。岩場が少し平らになった場所で、暦は俺を正面から見て、両手で俺の手を握った。
「……あれだけ危ないっつっといてあれなんだけど。今だけ、俺に付き合って、上がってきてくんねえか。絶対、変な目には合わせねぇから」
信じてほしい。
夕方の暗がりの中、深みを増した瞳がまっすぐに俺を見ている。
長い付き合いじゃない。生きる場所だって違う。だけど、暦がまっすぐで優しくて、俺を想ってくれてるのは知ってる。だから最初の日だって暦の手を取ったんだ。
「うん」
日に焼けた暦の手に自分の手を重ねる。あたたかい手。口元がうすく笑みを浮かべる。
「んじゃこっち、そっちも、俺に手ェ回して」
「え」
重ねた手のひらはそのまま暦の頭の後ろに誘導されて、反対の手も同じようされる。屈んだ暦が水の中、俺の尾びれの方に腕を伸ばして、それから、
「――せぇのっ」
ざばぁ、大きな水音を立てて、俺は暦に抱き上げられた。暦の手は人で言うところの腰と膝裏に差し入れられていて、俺の腕は暦の首に回っていて、暦の顔がすぐそばにあって、暦の吐息で空気が揺れるのすら感じられて混乱しそうになる。暦の手が触れている部分が熱い。ぴりぴりする。
「れき、」
「……かっる」
こぼれおちたみたいな暦の声はいつもよりすこしかすれていて、それになにかがざわざわする。助けてほしくて見上げた暦は俺の知らない大人の顔で笑うから、もっと迷子になりそうで。
濡らした布を掛けられて、ボトルに入った水を渡される。……信じてほしい、なんて。信じられる要素しかない。
「こっち」
暦は俺を抱えたまま陸地を、歩く。「足」が互い違いに地面を踏みしめて、そのたびに暦の身体ごと揺れる。地面の上って、こんな感じなんだ。
ごつごつと段になっている岩を登っていく。俺を抱える腕に時々力が入るのがわかる。
「……ねぇ暦、無理」
「してねえ」
……そう言われたら、黙るしかない。暦の首に回した腕に力を入れる。一瞬、暦が息を止めた気がした。
「……ここ」
どれくらい経っただろう。岩場の上、切り取ったみたいに空が見える穴から、暦は顔を出した。風が頬を叩くのを感じる。空が近い。海が下に見える。それだけで高いところに来たのがわかった。暦は俺の顔が穴から出る高さを確認して、俺を横抱きにしたまま座る。
「そっち側が、いつもんとこ」
暦が指さした先に、桟橋の端が少しだけ見えた。
「こっち」
後ろから伸びてきた暦の手が俺の頬を包む。頭ごとゆっくりと方向を変えられて、手が離された瞬間、見えた景色に息をのむ。
雨が上がった空、うっすら残る雲、海、ぜんぶが夕焼けに染まっている。広い空と薄く溶ける雲はオレンジとピンクと青のグラデーションをつくっている。海は空をうつして波がきらきらきらめく。
空いっぱいに広がる円弧。赤、橙、黄色、緑、青、藍、紫。分かれた色彩が空のキャンバスに描かれている。――雨上がりの、本物の虹。
「絶景だろ」
すぐ後ろ、耳元に明るい声が聞こえる。目の前の光景から目を離せない俺は、小さくうなずくしかできなかった。
「本物の虹、見せるって言ったろ。いつもんとこだと方角ちげーからさ。どうしてもおまえと見たくて、こんなとこまで連れてきちまった」
夕焼けが綺麗ないつもの入り江は西側だ。太陽の反対側でないと、虹は見えない。前に教えてくれたことを繰り返してくれる暦の声も聞こえないくらい、俺は景色に意識を奪われていた。あまりの光景に、胸の奥にあふれてくるものが、抑えられない。
夕焼けにこんなに胸が締め付けられるのは、暦の瞳の色だからだ。空いっぱいの虹を、目の前の景色を大切に思うのは、暦が一緒にいるからだ。
世界が、ぼやける。
「――……ランガ」
ぴり、頬に微かな痛みが走る。触れて離れた暦の指が、濡れている。
暦を見る。太陽の色が、俺をまっすぐに射貫く。
――お前、なんで泣いてんの。
「…………え……?」
暦の指を追うように、自分の頬に触れる。俺の指は暦と同じように濡れる。俺、本当に、
――自覚した瞬間、顎元まて一気に溢れた。
「なんで……?」
夕焼けが、虹が、とても綺麗だと思った。暦が好きな景色を教えて貰って、一緒に見ることができて、嬉しいのに。嬉しい、はずなのに。
どうして涙が止まらないんだろう。どうして、こんなに胸が締め付けられるんだろう。
「……なぁ、ランガ」
瞳から溢れるものに濡れ続ける頬に、熱い手が添えられる。頬から全身に痺れが走る。近くにいる暦の表情さえ、わからなくなっていく。
「そうだったらいいな、ってこと、言っていいか」
ぼやけた視界の中、暦の熱が近付いてくる。目元に触れたやわらかいものが、水分を奪って、離れていく。
「お前さ、俺が海の上のヤツだって、意識しちまってんだろ」
岩山の上、風が流れる中で見る、空と海の間。どうしたって、海の中では――人魚の世界では見られないものを、好きだって言うから。
「俺は、意識したよ」
お前が海に帰るたびに。浜には流れつかないものを持ってきたときに。――陸に上がって、干からびかけるのを見たときに。
「俺とお前じゃ、一緒にはいられないんだって、突き付けられてるみたいで怖かった」
俺の独りよがりなら、墓まで持ってこうと思ってたけど。暦は俺の手を握る。
「……もし、お前がさ。同じように思ってくれてるんなら、俺はそうしたい」
ランガは、どうしたい?
まだ胸の中に溢れる何かは止まらなくて、目の前の暦がまっすぐに伝えてくれることも受け止めきれてない。けど、俺がどうしたいか、それならひとつしかない。
「――……暦と、一緒にいたい」
無限に。
――最後まで口にする前に、その言葉ごと奪われる。
息を止めた永遠みたいな数秒。離れた暦が俺の肩を掴んだまま俯いていて、少しだけ見える耳が髪と同じくらいの赤色をしていて。
今のって。……さっきの、目も、もしかして。
「ずるい」
赤くなるのは、今度は俺の番だった。ただでさえいっぱいいっぱいなのに、もっと暦でいっぱいになってしまう。
「おわっ!?」
押し倒す勢いで暦に抱き着く。あぶねえだろ、っていう暦の心臓が速いのが、落ちそうだからじゃなくて全部俺のせいだったらいいのに。
「海の」
「ん?」
「俺の好きな景色も、見て欲しい」
夕焼けの虹を見せてくれたみたいに、俺の世界も知って欲しい。
「……うん」
抱きしめてくれた腕は、火傷しそうなくらいに熱かった。
なぁ、暦。俺は暦に会うまで透明な水だったんだ。
でも、暦に出逢って、色付いた。暦が照らしてくれたんだ。暦が俺を虹にしたんだ。
そうだよ、暦は、俺の、